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「麦粒として死ぬのか、生きるのか」 ヨハネによる福音書12章20~26節 

2022-10-23

 有名な「一粒の麦のたとえ」です。 問題は、この「一粒の麦のたとえ」が語られた時と背景です。 イスラエルの民がかつてエジプトから救い出された「救いの出来事」を忘れないようにと、神への賛美と感謝を捧げ続けてきた「過越の祭り」の時です。 十字架に架けられるためにイエスが自ら進んで、真のメシアの姿として「ろばの子」に乗ってエルサレムに入って来られた直後のことです。 「十字架の出来事の時」が来たことを悟り、自ら用意した最後の晩餐に弟子たちを招き一人一人の弟子たちの汚れた足を洗われ、「あなたがたは互いに足を洗い合わなければならない」と、最後の別れを告げた出来事の間に、ギリシャ人たちに語られたイエスの「たとえ」なのです。 エルサレムに巡礼していたギリシャ人たちが、「お願いです。 イエスにお目にかかりたいのです。」と、イエスの弟子であるフィリポとアンデレに掛け合います。 当時の社会では、異邦人の立場で直接イエスの前に出ることなどできないことを十分承知のうえで、それでも「イエスにお目にかかりたい」一心で願い出たのでしょう。 彼らの願いを後回しにして語られたイエスの言葉が、「人の子が栄光を受ける時がきた。」 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」という「たとえ」であったと言うのです。 「人の子」とはイエスご自身のことです。 「一粒の麦が地に落ちて芽を出すこと」は自然界では当たり前のことです。 イエスは、「一粒の麦が地に落ちること」を、「一粒の麦が死ぬ」と表現します。 「芽を出して新しい命の営みが始まること」を「多くの実を結ぶ」と言います。 「わたしが栄光を受ける時がきた。 私に定められた予てより予告していた十字架の出来事が起こされる時がきた。 わたしの地上の命を差し出してその命が死んで失われるなら、地上に生きる多くの人たちが新しい命に生きることになる。 しばしの間、神を見失い、地上の目に見えるものだけに目や耳や心を奪われてしまったこの世に漂う存在が向きを変えて、神を求めて生きる霊性を取り戻し、神のもとへ戻っていく存在につくり変えられる。 わたしが十字架に架けられる姿こそ、父なる神の救いの業を映し出す姿となる。 神の栄光を現わす時となる。」と、イエスはこの「たとえ」を用いて「福音の奥義」を語っておられるのです。 そしてイエスは、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と付け加えます。 「愛する」とは執着する、「憎む」とは捨てるという意味合いでしょう。 そのままの姿に執着し、変わろうとしない私たちに替わって、私たちの愚かさや弱さすべてを背負って血を流し、死に定められた命を父なる神に委ねてくださった。 自ら帰ることも願い出ることもできない私たちを神ご自身が取り戻すために、御子であるイエス・キリストを献げなければならなかった。 十字架の出来事は、神の決断によって定められた「救いの時」でもあり、神ご自身の痛みを伴う妥協することのできない「裁きの時」でもあったのです。 そのために、イエスご自身がすべてを身に背負って味わわなければならない「わたしが栄光を受ける時」であったのです。 このイエス・キリストの死と復活に与かるなら、その身に「イエス・キリストの命」が現れる。 私たちの身にさえ神の栄光は現れ出るのです。 イエスは、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。 そうすれば、わたしのいるところにいることになる。 父はその人を大切にしてくださる。」と言います。 自分や人のためというところを越えて、十字架に架けられたイエス・キリストに仕えるために生きる。 この世に縛られて生きる自分を捨てて、解放させていただく。 この招きが「福音の奥義」なのではないでしょうか。



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