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「羊飼いの声を聴き分ける羊の群れ」 ヨハネによる福音書10章7~18節

2022-10-16

 この段落の直前に、「羊の囲い」の話が出てきます。 羊は村の共同の囲いに纏めて入れられていた。 囲いの門番は顔見知りの羊飼いだけに囲いの門を開け、中に入ってきた羊飼いは、多くの羊の中から自分の羊だけを囲いの外に連れ出す。 その先頭に立って、羊の命を養う牧草や水のあるところに連れ出すのです。 羊飼いは自分の羊の世話をして、その声が羊によく知られ、その羊の一匹一匹の名前を呼び、羊はその声だけに従っていくと言います。 旧約聖書は、この羊飼いと羊の関係になぞらえ、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(詩編23編)と賛美しています。 ところが、「その囲いの門を通らないで来る盗人、強盗には羊は決してついて行かず、逃げ去る。 彼らの声を羊は知らないからだ。」と言います。 このたとえを受けてイエスは、「わたしは羊の門である。 わたしを通って入らない者、わたしより前に来た者は皆、盗人であり強盗である。 羊を盗んだり、屠ったり、自分の為に滅ぼしたりする。 神の民を荒らす者である。」と、イエスを決して受け入れないファリサイ派の人々にイエスは語るのです。 ここで言う「わたしより前に」とは、イエスご自身の十字架と復活という「イエスの時」が未だ果たされていない前にということでしょう。 「わたしを通って入る者は救われる。 その人は、門を出入りして牧草を見つける。 わたしが来たのは、羊が命を豊かに受けるためである。」と、イエスの十字架の死に与ることによって滅ぶべき命に死ぬ。 イエスの復活の命に与ることによって新しい命が与えられると言うのです。 更にイエスは、「わたしは良い羊飼いである。 羊のために命を捨てる。 良い羊飼いは、自分の羊を知っており、羊もその羊飼いを知っている。」と言います。 ここで言う「知る」とは、単なる「知る」ということではなく、人格的な深い結びつきを言います。 この羊飼いと羊たちとの関係は、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」とまで言われるのです。 これはひとえに、イエスが私たち神の民のためにご自身の地上の命をささげてくださったからです。 私たち神の民がイエスと同じ命を受けることができるようにと、人間の初穂としてイエスが備えてくださったからです。 イエスはこのことを、命がけで羊の命を守った当時のユダヤの羊飼いの姿を通して語っておられるのです。 もうひとつイエスは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。 その羊をも導かなければならない。 その羊もわたしの声を聴き分ける。 こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と不思議なことを語っておられます。  「囲い」の外と内が現実にあることを、イエスは認めておられます。 いつしか「囲い」の外の羊の群れが、「囲い」の内の羊の群れと一緒になって、一人の羊飼いによって導かれ、一つの群れとなる。 これがイエスの願いでした。 「一つの群れとなる」ために、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」 それは、命を捨てるゆえに与えられる新しい命を得るためである。 これが「わたしが父から受けた定め、掟」であった。 この父に従った「それゆえ、父なる神はわたしを愛してくださる。」 しかし、これはイエスご自身の意志によるもので、「だれもわたしから命を奪うことはできない。」と言われる。 命を捨てることも、命を再び受けることも神の権威によって与えられた。 「救い」を求める私たち、イエスの声を聴き分ける私たちが、命を豊かに受けるために、イエスが遣わされてきた。 ご自身の命を捨てることが、私たちが新しい命を得、私たちが弱さを知り真の強さを知ることになるとイエスはこのたとえをもって語っておられるのではないでしょうか。



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