「主に祈られた私たちの祈り」 ルカによる福音書23章31~34節
イエスが十字架に架けられる週の木曜日の夜、イエスは弟子たちと最後の晩餐を共にとられ、祈るためにオリーブ山に向かわれたのです。 その深夜、裏切ったユダに指示された兵士たちにイエスは捕らえられ、裁かれ、処刑されていきます。 その間、イエスは愛する弟子たちに向けて、「あなたがたはわたしを見捨てて逃げ出すだろう」と予告するのです。 弟子たちはそんなことはあるはずがないと主張します。 その中心人物であったペトロに、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とイエスは言うのです。 「小麦のようにふるいにかける」とは収穫の時の選別作業です。 倉に納めるべき小麦と、焼き捨てられる雑穀に振り分けられるということでしょうか。 あなたがたすべてがこのわたしを裏切るという出来事は、神のもとからあなたがたを振るい落そうと願っているサタンの願いから出てくることである。 その思いが神に聴き入れられたとしても、神が赦されたご計画の中にある出来事であるはずである。 神はサタンの願いを聞き入れられた以上に、このわたしの願いを聞き入れてくださったと、イエスはペトロに言うのです。 このイエスの父なる神への願いこそ、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」という「祈り」です。 これを聞いたペトロは猛然とイエスに反論し、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」と、自分の固い決意と覚悟を表明するのです。 これに応えてイエスは人間の決意と覚悟の虚しさを、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と語るのです。 ペトロは決して臆病な者ではなく、イエスが捕らえられた際には剣をもって相手に立ち向かい、また危険を冒してまでもイエスの姿を大祭司の庭に入るまでに追いかけるのです。 しかし、ついに「あなたもイエスの仲間ではないか」という一声に、「わたしは知らない。 仲間ではない。 言うことが分からない。」と、ペトロはイエスが予告されたとおり三度否定するのです。 その時、「イエスは振り向いて、ペトロを見つめられた」と記されています。 ペトロはこのイエスの眼差しに、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」という言葉と、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」というイエスの言葉を思い起こすのです。 ペトロは「外に出て激しく泣いた」と言います。 泣くことしかできなくなったペトロの「沈黙の祈り」の時でしょう。 イエスはペトロに、「信仰がなくならないように」と祈られたのです。 ペトロが祈り求めたからイエスが答えて祈られたのではなく、ペトロの信仰がたとえもろくて壊れやすいものであったとしても、ほんのわずかなものであったとしても、ペトロには信仰があると言っている。 その信仰がなくならないように、もうすでに祈ったと言うのです。 「振り向いてペトロを見つめた眼差し」こそ、このイエスのとりなしの祈りの立ち姿です。 ペトロは、ありのままの姿で泣くしかなかった。 それでも、イエスの前に立つことが今赦されていることに気づいたのです。 すべての弟子たちに入り込んできたサタンの思惑を、「イエスのとりなしの祈り」が凌駕したのです。 祈ることさえ、求めることさえ失ってしまった「沈黙の祈り」は、イエスの「とりなしの祈り」に支えられて再び立ち上がるのです。 イエスはこの立ち上がりを確信して、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と新しい務めをすでに与えておられるのです。 イエスの「とりなしの祈り」に支えられたペトロたち、私たちの消えてなくなるような信仰のうえにご自身のからだをつくり上げると言われたのです。