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「神の約束としての賜物」 使徒言行録2章37~47節 

2022-05-29

 「聖霊が降る、受ける」とは、私たちにとってどういう意味のある出来事なのでしょうか。また、「聖霊」とは、いったい何者なのでしょうか。 ルカはこの出来事を、福音書の続編として「使徒言行録」に客観的に詳しく記しています。 ヨハネによる福音書はこのルカとは異なり「聖霊が降る」出来事を、「弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。 弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。 聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:19-23)と端的に記しています。 かつてイエスが「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。 あなたがたのところに戻ってくる。」と約束してくださっていたように、復活されたイエスは絶望し意気消沈していた弟子たちの真ん中に現れて、聖霊を注いでくださったのです。 一方、ルカは、聖霊が弟子たちの上に降った有様を詳しく語っています。 「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに話し出した。 復活したイエスが度々現れていたにも関わらず信じて受け入れることのできなかった弟子たちが、イエスを賛美し、復活されたことを大胆に証言するまでに、新しい人間として生まれ変えられた。」と、聖霊の業として証言しているのです。 その中心人物であったペトロの説教は、新しい霊の目が開かれたとしか言いようがありません。 その変貌ぶりは目を見張るばかりで、イエスによくたしなめられていたペトロ、イエスが復活されたと告げられ「たわ言のように思われた」と信じることができなかったペトロとはまるで別人です。 そのペトロの言葉に、人々は心を打たれて、「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねるまでになったと言います。 ペトロと同じように、人々はイエスを殺してしまった自分たちの過ちに気づかされるまでになったのです。 その時のペトロの言葉が、「悔い改めなさい。 イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。 罪を赦していただきなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、私たちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられるものなのです。」と語ったのでした。 賜物として聖霊を受けるという約束がもうすでに用意され、その約束に従って神の業が起こされる。 私たち人間の業を用いてでも神の業を起こしてくださる。 「主が招いてくださる者ならだれにでも」です。 そこに、神の民の群れは起こされたとルカは証言しているのです。 このペトロの言葉を受け入れバプテスマを受け、その日に三千人ほどは仲間に加わったと言います。 教会という群れは、人の業によってできあがったものではありません。 神のみ心があって、約束が語られ、聖霊が賜物として注がれ、人間の業が用いられ、救われるべくして集められた私たちによって造り上げられた存在なのです。 「聖霊が降る」とは、ルカも、ヨハネもその表現は異なりますが、復活されたイエスに出会う、神の約束の賜物が注がれる、私たち人間が応えていく、そこに神の業が起こされるということなのではないでしょうか。 その神の業の有様は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と言います。 そのために注がれる「聖霊」という賜物を求めて止まない、私たちの「祈り、信仰、礼拝、悔い改め、恵みの感謝」を指すのでしょう。



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