秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「イエスのバプテスマ」 マタイによる福音書3章13~17節

2022-05-08

 ここに出てくるバプテスマのヨハネが語る「バプテスマ」とは、どのようなものであったのでしょうか。 当時のユダヤ社会でも、水に入り罪を清めることは行われていたようです。 しかし、バプテスマのヨハネは、「毎日水に入り、汚れた罪のからだを清めようとしても、人間の中に入り込んでいる罪を洗い流すことはできない。 終わりの日の裁きの時が近づいている。 悔い改めよ。 天の国は近づいた。」と語り、人々に悔い改めを迫ったのです。 人々に罪の告白をさせ、ヨルダン川で一回限りの「バプテスマ」を授けていたのです。 そのヨハネのバプテスマを受けるために、「エルサレムとユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯から人々がヨハネのもとに来た。」と言うのです。 そのなかにエルサレム神殿を司るサドカイ派の人々や、律法の戒めを説き人々に聖書の教えを伝えるファリサイ派の人々が入って来ているのを見て、「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と、誤って人々を導いているユダヤの指導者たちに激しく辛辣な口調で悔い改めを迫るのでした。 そして、「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後からくる方は、わたしより優れておられる。 わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。 その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」とも言うのでした。 「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに来られた。」とあります。 なぜ神の子であり、ヨハネに告白すべき罪をもたないイエスがひざまずいて、ヨハネからバプテスマを受けなければならなかったのか疑問です。 この「来られた」という言葉が「補佐する、助けにくる」という意味合いがあるとするなら、突然、イエスがヨハネのもとに助けに来られたということになります。 そのヨハネは戸惑います。 「ヨハネは、それを思い留まらせようとした」と言います。 激しく悔い改めを迫ったその口調でイエスに向き合うことなどできるはずはありません。 「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか。」というのが精いっぱいの戸惑いの言葉であったのです。 その時のイエスの言葉が、「今は止めないでほしい。 正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」という言葉でした。 イエスが「このまま、バプテスマを受けさせてほしい」と言われているのです。 イエスはご自身の罪の告白も、罪の赦しの願いも一切語られていません。 むしろ、「私たちにとって、これが正しいことなのだ。 ふさわしいことなのだ」と言われているのです。 「これが神のみ心なのだ。 神のみ心が果たされることが正しいことなのだ。 ヨハネ、あなたが納得するかどうかは問題ではない。 あなたが願っていることが正しいことでもない。 あなたが手出しすることもできないことだ。」と言わんばかりです。 ヨハネは納得できないまま、「イエスの言われるとおりにした。」と言います。 自分の思い願う正しさを捨てて、謎を残したまま神に委ねる時に初めて「信じる」という出来事が起こされます。 信じて従う時に初めて、神のみ心の正しさを味わいます。 「わたしを水の中に沈めよ。 替わって受ける神の裁きによって、あなたがたはわたしに結ばれることになる。 わたしとともに自分の正しさを捨てて、委ねて生きていきなさい。」と、ご自身の十字架の死と復活の出来事を予見されたのではないでしょうか。 



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