「無きに等しい者」 コリントの信徒への手紙1章26~31節
コリントの教会の内部では、いくつかの群れに分かれるという騒動が起こっていました。 人間の社会では、主導権争いはよくあることです。 パウロはコリントの教会の状態を知って、「いったい、だれがわたしたちを救うために十字架につけられたのですか。 だれの名前によって、あなたがたはバプテスマを受けたのですか。」とはっきりと主張します。 教会はイエス・キリストのひとつのからだである。 自分たちのために十字架に架かって死んでくださったお方を語るべきである。 言葉の知恵によらないで、聖霊の力によって十字架の出来事を通して語る神の言葉を告げ知らせるために遣わされたのだと主張するのです。 このコリントの教会の群れの分派争いの原因を、パウロは「言葉の知恵、人間の誇り、この世の知恵」に置いています。 十字架に架けられたイエスの姿は、「人の知恵、この世の知恵」からすれば、愚かで、弱々しい、余りにも低く見えてしまう、理解不能の姿にしか映らないでしょう。 しかし、パウロは「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。」と言うのです。 「召される」という言葉は、「呼ばれる、引き寄せられる、集められる、遣わされる、再び神のもとへ戻って行く」という意味合いに用いられています。 「召される」のは神です。 神に造られた私たちは、この神の呼びかけに応えなければなりません。 「神に呼ばれたのはだれであったのですか。 人間的に見て知恵のある者、能力のある者、地位のある者、家柄のよい者が多かったわけではありません。 むしろ、無学な者、無力な者、世の無に等しい者、身分の低い者、見下げられている者であったではありませんか。 それには理由がある。 誰一人として、人間が神の前で誇ることがないようにするためです。 ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、神に召された者には、神の力、神の知恵である十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えるためです。」とパウロは言うのです。 この「無きに等しい者」でなければ、「十字架の出来事に示されている神の言葉」を宣べ伝えることはできない。 自分の誉れ、自分の誇りにまみれた者であるなら、この世の知恵では悟ることのできないイエス・キリストの十字架と復活に示されている「神の力、神の知恵」を宣べ伝えることはできない。 正に、イエス・キリストの生き様に凝縮されているように、この世の知恵で「愚かな者として、無力な者として、取るに足りない者」として、父なる神に従わなければ「神の力、神の知恵」に生きていくことができない。 そのために、神は私たちを選んで、呼びかけて、召してくださっているのです。 神に召された者とは、神に選ばれた結果としか言いようがありません。 私たちの立派さ、努力、信仰、熱意とか、私たちの側に何らの根拠があるものではありません。 人間の側の一切の「誇り」を否定するものです。 「誇る者は、主イエス・キリストだけを誇れ」と、パウロは(エレミヤ9:23)を引用して語ります。 「神の力、神の知恵であるキリスト・イエスに結ばれる。 このキリストが私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた。 私たちはそれを受け取るだけである。」と言うのです。 「神の知恵」とは、人間に隠されている神のみ心です。 「義と聖」とは、神によしと肯定されるということでしょう。 パウロは、「神は罪と何のかかわりもない方を、わたしたちのために罪となさいました。 わたしたちはその方によって、神の義を得ることができたのです。」と言います。 「贖い」とは、「奴隷を自由の身にするために代償を払う」ということです。 この身代金こそ、十字架のうえで引き裂かれたイエスのからだ、流されたイエスの血です。 神ご自身が最も愚かな姿、低くされた姿、弱くされた姿をとって現れてくださったのです。