「現れ、名乗り、決心される神」 出エジプト記3章13~20節
ミディアンという地で羊飼いをしていたモーセは、神の山に差しかかった時、不思議な光景を見たと言います。 柴が火に燃えているのに燃え尽きない、その光景をモーセは見極めようと近づいて行った。 その姿を「ご覧になっていた」神は、その柴の間から「モーセよと、その名を呼ばれた」と言います。 モーセはこれに「はい」と答え、神は「ここに近づいてはならない。 あなたの立っている場所は聖なる土地だから。 わたしは、あなたの父の神である。 アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」とご自身を名乗られたのです。 これが、神とモーセとの出会いでした。 神はモーセに、「エジプトにいるわたしの民の苦しみを見、叫び声を聞いた。 彼らの痛みも知り、エジプト人に圧迫される有様も見た。 それゆえ、わたしは下って行き、エジプトの手から彼らを救い出し導き出す。 そして、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き昇る。」と言われたのでした。 モーセの生い立ちは複雑で、もともとエジプトに住むイスラエルの家庭に生まれた者でした。 エジプトにイスラエルの民の数が急激に増加したことに恐れを為したエジプトの王が危機感を憶え、イスラエルの男の子が生まれたら殺すようにと命じるまでになったと言います。 モーセの両親は、生まれたてのモーセをパピルスで編んだ籠に入れてナイル川に流した。 それをエジプトの王女が拾い、エジプトの王の一族として育てたのです。 成長したモーセは自分のルーツを知り、自分の同胞であるイスラエル人を虐待するエジプト人を殺してしまう事件を起こし、エジプトから追われたのです。 このような複雑な生い立ちをもつモーセに、神はご自身のみ心を託すのです。 「わが民イスラエルの人々のところに、また、エジプトの王のところに行きなさい。」と神に言われたモーセはしり込みをします。 不自由のない安定した生活を家族と共に送っているのです。 決して若くはない年齢です。 自分の生い立ちからは、イスラエルの人々にとっても、エジプトの王にとっても「よそ者」です。 相手にされないと思うのが普通です。 「わたしは何者なのでしょう」と神に問い返すのは当然です。 これに神は、「わたしは必ずあなたと共にいる。 このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。 行って、『あなたたちの先祖の神が、イスラエルの民の神がわたしを遣わした。』と言え」と言われるのです。 この神の呼びかけに、モーセが「参ります」と答え、「遣わした神の名は一体、何か」と問われたら「わたしはなんと答えるべきでしょうか」と尋ねた時に初めて、「わたしはある。 わたしはあるという者だ。」とご自身を明かしてくださったのです。 「わたしはわたしがあろうとする者である。 わたしはわたしがなろうとする者になる。」と言われているのです。 「モーセよ、イスラエルの民よ、わたしはあなたがたのために、あなたがたの神となろうとする者である。 心配することはない。 わたしはいつも、どこでも、あなたがたと共にいる。」と響いてきます。 神は、私たちの苦しみをご覧になって、叫び声を聞いたのです。 それゆえ、モーセに現れ、呼びかけ、名を呼んで、段取りまで教え、こうなるであろうと約束までも与え、自らの決心を告げられたのです。 モーセと神との出会いは、神のもとに進み出ることから始まっています。 それをご覧になった神が決心し、呼びかけられたのです。 モーセの応答と訴えを聴いて、自ら名乗られ、これから行われようとされているみ心を語られたのです。 応答しなければ、神のみ心を知ることはできません。 神との交わりがなければ分からないのです。 そこに、神の祝福が果たされていく。 その間、神はいつも共にいる。 神が名を呼び、ご自身の名を呼ぶことを赦し、交わりが起こされるのです。 「礼拝」こそ、神との交わりの原点、神の祝福の源です。