「杖一本をもって」 マルコによる福音書6章7~13節
イエスがその故郷ナザレで、「この人は大工ではないか。 マリアの息子ではないか。」と、人々に拒まれ、イエスの宣教の旅が始まったのです。 およそ三年あまりその先頭に立って進んで行かれたイエスと、そのイエスのそばを離れずついて行った弟子たちの旅の姿を憶えます。 神が約束された地を目指し、40年もの間荒れ野をさまよったモーセとイスラエルの旅の姿に重なります。 荒れ野では、雲が幕屋を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまるとそこに宿営したと言います。 神の命令に従って、イスラエルの人々は旅立ち、宿営したのです。 私たちの思い願う「人の時」と、神のみ心が果たされていく「神の時」とは、どうしても食い違うのです。 神さまの働きは、私たちの思い通りには収まり切らないのです。 イエスは、「12人の使徒たちを呼び寄せる」ために、夜を徹して祈っています。 その背景には、神の民として選ばれていたイスラエルの人々の「飼い主のいない羊のような有様」を深く憐れまれたからです。 イエスはこのようなイスラエルを神のもとに取り戻すために、「12人を呼び寄せ、イスラエルのもとに遣わすこと」を決断されたのです。 12とは、失われたイスラエルの部族の数です。 呼び寄せられた12人の使徒たちとは、新しいイスラエルです。 なぜ、何の準備もされていないこれらの弟子たちを選んで、派遣して神の国の福音を宣べ伝えるという方法でイスラエルを取り戻そうとされたのでしょうか。 イエスご自身の十字架の時が今まさに迫ってきて、神が働かれる「神の時」が迫ってきていたのです。 使徒たちは遣わされることによって、神のみ心を知ることになる。 どこに向かって進んでいるのか知ることになる。 働いているのは自分たちではなく、イエスご自身が働いてくださっていることを知ることになる。 何よりも自分自身を知る、託された務めを知ることになる。 そう願って12人の使徒たちを選んで遣わされたのではないでしょうか。 「二人ずつ組みにして」と、イエスに結ばれての交わりを宣教の土台としたのでしょう。 巧妙に人を神から引き離そうとするあらゆる力に対抗しうる神の力として、「汚れた霊に対する権能を授けられた」と言います。 神なしに生きている人々を神のもとに取り戻そうとして、「悔い改めをさせるために宣教した」のです。 「パンも、袋も、金も、2枚以上の下着を持って行ってはならない。」と言います。 自分が持っているものを与え、一時的に慰め力づけることができたとしても限界があるでしょう。 しかし、自分の「貧しさ」を知るなら、自分が持ち合わせていない神のもとから注がれる「豊かさ」を人に伝えることができるようになるのではないでしょうか。 むしろ、ここで言う「持って行きなさい。 着けて行きなさい。」という「杖一本、履物、下着一枚」に注目したい。 モーセは、「40年間荒れ野で人々を導いたが、まとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった」と振り返っています。 神から託された務めを果たす為の旅には、必要なものはすべて与えられる。 「杖」そのものに力があるわけではないが、それが神の業に用いられるなら力を発揮する。 その「杖一本」を持って行きなさいと言われているのです。 そして、「受け入れる者」の所に留まり、「受け入れない者」の所では立ち去りなさいと言われるのです。 残念ながら、イスラエルの人々はイエスを扱ったように使徒たちを拒んだのです。 イエスは、使徒たちを受け入れないことは、彼らを遣わしたこのわたしを受け入れないことであると言います。 「一本の杖」という新しくされた自分自身をささげて、最後まで「世の光、地の塩」としてイエスと共に歩み通すのです。 「あなたがたは祝福の源となる」という神の約束が、与えられたその所で果たされるのです。