「赦された共にあずかる食事」 マルコによる福音書7章1~15節
人里離れた所で、イエスは手元にあった「五つのパンと二匹の魚」を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに「男の数で五千人」に配らせた。 すべての人が食べて満腹した。 パン屑と魚の残りを集めると、12の籠にいっぱいになったと言います。 有名な「奇跡」のお話です。 ところが同じような「七つのパンと小さな魚」によって、「四千人の人々」が食べて満腹した。 残ったパンを集めると、七籠になったお話が記されているのです。 今朝の聖書箇所はこのふたつの「奇跡」に挟まれています。 わずかな食べ物で大勢の人々が養われたという「奇跡」の出来事以上に、その場にいたすべての人が区別なく、一緒に食べることができた「奇跡」の出来事の方に重点が置かれているように感じます。 なぜなら、イエスのもとに集まってきた人々とは、当時のユダヤ社会が、「汚れたもの」として排除していた人々であったことは容易に想像ができるからです。 「汚れたもの」に触れてはならないと、律法によって厳しく細かく禁じられていたからです。 「洗わない手で食事をする」ことなど、決して許されることではなかったはずです。 手洗いなどできようはずもないところで、すべての人が手を洗わないで、手渡しで食べ物を分け合っているという、当時としては考えられない、律法による支配に風穴を開ける大事件となったのではないでしょうか。 ファリサイ派の人々と律法学者たちは、衛生上の問題だとしてではなく宗教上の問題として、手を洗わないで食事をするイエスの弟子たちを咎めたのです。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 激しい詰問とでも言えるこの問い糾しにイエスは、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。 あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものだ。」と答えたのです。 「昔の人の言い伝え」とは、律法の戒めを守るために定められ、積み重ねられてきた具体的な生活の規則です。 その言い伝えが、ついには律法と同じ重みをもつまでになったのでしょう。 イエスはこの「昔の人の言い伝え」を、「人間の言い伝え」、「自分の言い伝え」と言い換えています。 「口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」というイザヤの預言を引用し、口先と心を対比します。 そして、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」と、外から入る食べ物が人を清くしたり、汚したりするものではないと言うのです。 「人の口は、心の中からあふれ出ることを語る。」と言われるのです。 「人間のつくった言い伝え、自分に都合のいい言い伝え」から解放され、その心を神のもとに戻して生きていきなさいと願われたのです。 イエスは社会から排除された者も、そうでない者も分け隔てすることなく、神から授けられる食べ物を隅々にまで配り、皆と一緒に食事をされたのです。 神の掟を守らなくてもよいようにと、言い伝えをつくってはならない。 悪用も乱用もしてはならない。 神に仕えることと、神が愛しておられる人に仕えることを切り離してはならないと言われたのではないでしょうか。 この給食の「奇跡」は、もうひとつ驚くべきことを語っています。 人々が満腹した後に、残った食べ物が集められているのです。 そこにいた人たちだけに与えられた「食卓」ではなかったのです。 この「食卓」にあずかることのできなかった人たちのため食べ物が残されているのです。 私たちは、イエスを通して与えられた食べ物を互いに分ち合う、送り届ける「祈り」を持たせていただきたいと願います。 この食卓に与かるべき人たちが、今もって大勢おられるのです。