「証ししてくださるお方」 ヨハネによる福音書5章31~40節
旧約聖書に書かれていることに精通している専門家であるユダヤ人たちに、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。」とイエスは言われます。 しかしその聖書こそ、「わたしについて証しするものだ。 わたしをお遣わしになった父なる神が、わたしについて証ししてくださっているものだ。」と語ったのです。 イエスは弟子たちに、どれだけ父なる神が私たちを愛し、祝福してくださっているのかを聖書全体を通して説き明かしておられます。 エルサレム神殿に、水が動くとき最初にその池に入る者はその病いが癒されると言われていたベトザタという池がありました。 そこに38年間も横たわって病気に苦しんでいる人がいたと言います。 イエスに「良くなりたいか」と尋ねられた彼は、「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。 わたしが行くうちに、ほかの人が降りて行くのです。」と、自分の病いが治らないのは、誰も助けてくれないからである。 人のせいであるとイエスに訴えるのです。 その彼にイエスは、「起き上がりなさい。 床を担いで歩きなさい。」と、自らの足で立ち上がりなさいと言われ、38年間も横たわっていた人の病いを癒されたのでした。 イエスは安息日にしてはならない癒しの業を敢えて示されただけでなく、「わたしの父は今もなお働いておられる。 だから、わたしも働くのだ。」と言い、神を自分の父と呼び、神と同じようにふるまったものですから、大工のせがれではないかとユダヤの指導者たちは激しく非難し始めたのです。 その時のイエスのユダヤの指導者たちに対する反論がこの聖書箇所です。
イエスはご自身に対する4つの証言を語ります。 ひとつはバプテスマのヨハネの証言です。 人間が語った言葉を通して、「わたしは人間による証しは受けない。 しかし、バプテスマのヨハネは『わたしよりも優れた方が、後から来られる。 わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 この方こそ、神の子である。』と証ししたではないか。 バプテスマのヨハネは、燃えて輝くともし火であった。」と、ご自身の先駆けの務めをヨハネは果たしたと言われたのです。 二つ目には、イエスご自身がなさった業です。 出来事を通して、「わたしが行っている業そのものは、父なる神がわたしに成し遂げるようにお与えになった業である。 これこそ、父なる神がわたしをお遣わしになったことを証ししたものである。」と言うのです。 癒しや奇跡の業に留まらず、イエスが人のからだを背負って歩まれた生涯そのものの姿が、父なる神がお遣わしになったことを示しているのだと、イエスを霊能者に過ぎないと思っているユダヤ人指導者たちに、起こされた出来事によって神の子であることが証言されていると言われたのです。 三つ目は、父なる神の証言があると言います。 「しかし、この神ご自身の証言は、あなたがたは聞くことができない。 証言している姿も見ることができない。 なぜなら、父なる神がお遣わしになったこのわたしを信じていないからである。 自分の内に、父なる神の語られたみ言葉をとどめていないからである。」と言われたのです。 そして最後は、み言葉による証言です。 「聖書は、わたしについて証しするものだ。 その証しのみ言葉は、あなたがたに命を与えるものだ。 このわたしについての証言を受け入れることが、わたしとわたしの父を信じることである。 命が注がれることである。」と言われたのでした。 この福音書が書かれた目的について、「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20:30)と記されています。 神は、私たちのような小さな存在でさえも、その尊さをご自身自らの方法でふさわしく「証し」してくださるのです。