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「聖書全体に書いてある事柄」 ルカによる福音書24章36~49節 

2021-11-28

 イエスが十字架に処刑された三日後の早朝に、遺体が納められている墓に出向いた婦人たちの姿があります。 信じることのできない復活の事実を知らされた婦人たちは、「震え上がり、正気を失った。」とあります。 その婦人たちからイエスの復活の事実を知らされたエルサレムに残っていた11人の使徒たちの姿があります。 「婦人たちから知らされたイエスの復活の事実は、たわ言のように思われた。」とあります。 イエスが殺されたと暗い顔をして、エルサレムを離れて自分たちの村に引き返そうとしている2人の弟子の姿があります。 「イエスは生きておられる」と告げられた婦人たちの話に驚きつつも、身の危険を感じエルサレムから離れようとしているのです。 その2人に復活されたイエスが旅人の姿をとって話しかけられました。 2人の目は遮られていてイエスだとは分かりませんでした。 しかし、イエスが聖書全体に書かれているご自身の事柄を説明し、一緒の食事の席についた時、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになると2人の目が開けイエスだと分かったと言います。 それで、「2人は時を移さずそこを出発し、危険なエルサレムに再び戻って行った。」とあります。 「そういうこと」を弟子たちが互いに話し合っているその場の真ん中に、驚くべきことにイエスは立って現れたと言うのです。 「シャローム」と挨拶を呼びかけ、「なぜ、うろたえるのか。 どうして、心に疑いを起こすのか。」と言い、ご自身の手と足をお見せになって、「よく見なさい。 触ってみなさい。」と語り、差し出された焼いた魚の一切れを取って食べられたと言うのです。 これが、愛する弟子たちと復活されたイエスの再会でした。 神が起こされた業を、自分たちの五感や理性で捉えようとする弟子たちの姿が浮き彫りにされています。 復活のイエスに出会ったからこそ、彼らにイエスが復活されたことを信じる信仰が起こされていくのです。 死によって終わることのない新しい命の存在に気づかされていくのです。 絶望と諦めの中にも、生きる希望を見い出していくのです。 そのためにイエスは大事なことを二つ述べています。 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」と言うのです。 この復活の出来事は、聖書で書かれていたことが実現しただけである。 「うろたえてはならない。 わたしに起こることはすべて聖書に記されている事柄である。 この聖書の言葉の実現が、聖書を悟らせるためにあなたたちの目を開かせる。」と言うのです。 「なぜ、どうして、自分たちのものさしで見ようとするのか。 わたしの手と足を見なさい。 わたしに触れてみなさい。  聖書が記している神が定められた事柄を悟りなさい。 そのために、わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。 そうすれば、心の目が開かれる。 神のみ心を知るようになる。」と言われたのです。 聖霊の働きによる聖書の解き明かしが、私たちの心の目を開かせると言われたのです。 「罪に赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 あなたがたはこれらのことの証人となる。 高い所からの力に覆われるまで、都に留まっていなさい。」と、イエスは聖霊の力の働きを語られたのです。 弟子たちの驚き、うろたえ、疑いも必要だったのです。 彼らの目は遮られていたのです。 復活のイエスの呼びかけを聞く、復活のからだに触れる大事な時です。 復活のイエスと共に歩き始める大事な時です。 自分の本当の姿を見つめ直し、新しく出発する悔い改めの時です。 自分の救いのためだけでない、自分に連なるすべての人に、和解の場と救いへの道が備えられることに気づく大事な時です。 そのための神の力と知恵が、私たちに授けられる。 それまで、「都に留まっていなさい」と言われたのです。 私たちの都とはどこでしょうか。 そこで、聖書が記している神が定めておられる事柄を祈り尋ね求める大事な時を過ごすのです。



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