「新しきものへの方向転換」 コリントの信徒への手紙二5章16~21節
パウロこそ、ユダヤ教の戒めの律法や祭儀に誰よりも熱心でした。 それらを軽んじるキリスト教徒を厳しく取り締まった中心人物でした。 そのパウロが、ダマスコへ取り締まりのため出向いていた時のことでした。 突然、天からの光がパウロの周りを照らし、パウロは地面に倒されて、「なぜ、わたしを迫害するのか。 わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 起きて町に入れ。 そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」という、目に見えないイエスの呼びかけを突然耳にしたのです。 その時のパウロは目が見えず、食べることも飲むこともできず、人の手を借りなければ歩くことさえもできなかった死んだも同然の有様だったと言います。 これが、古いサウロに死んで、新しいパウロへとつくり変えられた瞬間でした。 そこから新しく立ち上がったパウロは、「わたしたちは、自分たちのために死んで復活してくださったキリストのために生きている。 このキリストの愛によって駆り立てられている。」とまで語る存在となったのです。 「パウロに使徒としての資格がない」と主張する人々の影響を受け関係が難しくなったコリントの教会の人たちに向けて、単なる弁明としてではなく、全く新しい存在となったことを語っているのが今朝の聖書箇所です。 「今後、だれをも肉に従って知ろうとはしません。」とパウロは言い、これからは人間的、社会的な価値や働き、考えや動機をものさしとしない。 それらは、イエス・キリストが死んでくださったことによってもはや過ぎ去ってしまったものである。 「わたしたち」はこれから人間の側のものを超えて、霊によって神の恵みの業を知ろうと思う。 「あなたがた」も、肉によって判断しないで霊によって神の恵みの業に目を向けるようにと祈り願うのです。 「キリストがすべての人のために死んでくださった以上すべての人も死んだことになる。 キリストがすべての人のために復活くださった以上、すべての人も復活したことになる。」とまで言うのです。 どういうことでしょうか。 パウロは、「わたしたち」は、「このキリストの十字架と復活に与かり、神の恵みの業に結び付けられた者ではないか。 すべての人のために死んで復活してくださった神の恵みの出来事を、自分のものとして受け取って新しく創造された者ではないか。」 パウロがサウロからパウロへとつくり変えられたように、「わたしたちもまた新しいわたしに神が再び創造してくださる。」と言うのです。 聖書の言う「復活」とは、からだの息を吹き返して元に戻ることでしょうか。 別次元の命が与えられ、新しく生きるからだに変えられるということではないでしょうか。 パウロは自分の生涯で突然訪れた、復活されたイエス・キリストとの出会いの体験が、新しく変えたと証言しているのです。 「悔い改める」とは、反省するとか後悔するということではなく、向きを変える方向を転換させられるということです。 新しい命を頂いて、過去に戻るのではなく先に向かって新しく生きていくよう変えられるのです。 パウロはこのことを、「これらはすべて神から出ること。 神はキリストによってご自分を和解させた。 わたしたちの過ち、背きを問わない。」と言います。 聖書の言う「和解」とは、神の一方的な呼びかけです。 私たちが何かを積み上げて和解するに値する存在となって与えられるものではない。 神が一方的にイエス・キリストをささげて、和解の場を備えてくださった神の恵みです。 単なる「赦し」ではなく、キリストの死が私たちの死となる。 キリストの復活が私たちの復活となり、復活されたキリストの命に生きるようになる。 キリストの和解の務めが与えられる。 和解の言葉が委ねられる。 パウロのように劇的ではないかもしれないが、この備えられた和解の場でなされる、神の救いの働きの実体験を神は必ず私たちにも与えてくださるのです。