「川となって流れ出る生きた水」 ヨハネによる福音書7章37~39節
「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」とあります。 「祭り」とは、仮庵の祭りです。 イスラエルの人々が異邦の地エジプトで奴隷として苦しんでいたところから解放されて、モーセによって率いられて行進した果てしない苦しい長旅を忘れないようにと、人々は小枝で造った仮小屋で七日間過ごすと言います。 その時の神の導きと守りを記憶し、この世は仮の住まいであることを信仰告白すると言います。 喉が渇いて仕方のなかった人々はモーセに向かって、「なぜ、われわれをエジプトから導き上ったのか。 わたしも子どもたちも、家畜まで渇きで殺すためなのか。」と不平を述べ、「我々に飲み水を与えよ」と迫ったのです。 主なる神は、「ナイル川で打った杖を持って行くがよい。 わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。 あなたはその岩を打て。 そこから水が出て、民は飲むことができる。」と言われたモーセが、岩の前に立って手を挙げて、持ってきた杖でその岩を二度打つと水がほとばしり出たと言うのです。 「祭り」の最終日には、エルサレムの近郊にあるシロアムの池から汲んできた水を、エルサレム神殿の祭壇に行列を組んで運ぶのです。 その「水」に包まれた神殿で、群衆に向かって立ち上がって、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と、イエスは大声で叫ばれたのです。 イエスは、「渇いている人」と言います。 人々が求めたのは、のどの渇きを癒す飲み水でした。 しかし、イエスは、渇いているのは体ではなく魂であると言うのです。 人間は体の渇きには敏感ですが、魂の渇きには鈍感です。 自分の魂が本当に満たされているのか、渇いているのか分からない。 そのことを忘れ去らせてくれるこの世のはかないものに満たされ、心地よい言葉に神を忘れてしまう。 それでよいと自分を納得させたりもする。 もともと人間は創世記にあるように、「土の塵で形づくられ、その鼻に命の息を吹き入れられて生きる者となった」のです。 神の息吹を必要とする霊的な存在として創られたのです。 神に応えるために、神を知る力、求める力を「霊性」として備えられているのです。 それがいつしか神に替わるものに奪われ、神を悲しませているのです。 「水の渇きではなく、魂の渇きに気づきなさい。 自分の本当に求めている魂の渇きが何であるのか知りなさい。 その渇きをもって、わたしのところに来なさい。 わたしのところに来る者はだれでも、生きた水を飲むことができる。 生きた水を飲むことによって魂の渇きは満たされる。」と、祭りの最後の日に立ち上がって人々にイエスは大声で叫ばれたのです。 そして、父なる神が約束されたように、その人の魂の渇きが癒されるだけでなく、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになると言うのです。 それは、「御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである」と注釈が付けられています。 父なる神は二つの約束をされています。 ひとつは、今まで犯してきた過ちを「思い起こさないことにする」と、私たちの過去について赦しを約束されました。 もうひとつは、「生きた水」という神によって吹き入れられた「聖霊」が注がれるという将来に向けての約束です。 私たちが赦されて受け入れられること、そして、それによって高価な賜物である神の霊が与えられることが、神の救いの本質です。 自分が本当に渇いていることを知る。 その渇きを携えてイエスのもとに出かけて行こうとする。 イエスに出会ってみる。 差し出された生きた水を感謝して受け取る。 それを飲んでみる。 すると、その生きた水は、その周りに川となって流れ出て潤すことになると、イエスは祭りの最後の日に宣言されたのです。 「わたしを信じる者」とは、直訳すると、「わたしの中に信じ入る者」となります。