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「与えようとしている土地」 ヨシュア記1章1~9節 

2021-10-17

 ヨシュア記には、モーセに率いられ奴隷の身であったエジプトから救い出され、神の約束の地カナンを目指し40年間荒れ野をさまよったイスラエルの人々が、モーセから引き継いだヨシュアに率いられ約束の地に入ることができたことが記されています。 しかし、一貫して記していることは、モーセの働きでも、ヨシュアの働きでもない。 神ご自身がみ心に従って果たされた働きであったということです。 そのヨシュアに、主なる神は4つの命令と5つの約束を呼びかけられます。 「今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」、「強く、雄々しくあれ。」、「モーセが命じた律法を、あなたの口から離すことなく、口ずさみ、忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。」、「うろたえてはならない。 おののいてはならない。」と命令を降されたのです。 同時に、「あなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。」、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。」、「わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる。」、「あなたは、行く先々で栄える。」、「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」と約束を宣言されたのです。 
 イスラエルの人々は不思議な出来事により守られ、エジプトから救い出され、支えられてきたことを思い起こし、その恵みに感謝していたのです。 その一方で、余りの長きにわたる荒れ野のさまよいに、苦しみや痛みを憶え落胆するのです。 いつまでこのようなことが続くのかと、不安や疑いをもつようになるのです。 かつて味わった喜び、救い出された感謝がいつしか薄れてしまう。 平安だった思いも、揺れ動いて心が破れてしまうのです。 ここに至ったことが、果たして正しいものであったのかどうか分からなくなるのです。 このような人々の姿は、「流浪の民」としか言いようがありません。 しかし、この人々は確かに神の約束を信じて一歩踏み出したのです。 この世の支配と苦しみに縛られていたところから、恐れも戸惑いもあったけれども救い出されたのです。 主なる神のみ心は、人々をご自身が「与えようとしている土地」に招き入れることであったはずです。 そのためにエジプトから救い出して、荒れ野に導き出したのです。 その途中なのです。 そうであるのに、人々はエジプトから解放された喜びだけで満足してしまう。 「与えようとされている土地」を見定めようとしない。 今、目の前にあるヨルダン川を渡ることを恐れて、脅えてしまうのです。 「わたしたちの求めや願いを遥かに超えた」神のみ心の救いの目的、真の恵みと賜物を味わうことなく、この世の目に見えるもので満足しようとするのです。
 「わたしが与えようとしている土地」とは何でしょうか。 「わたしたちの足の裏が踏むところすべて」、「先祖に約束され引き継がれている土地」、「どこに行っても、行く先々で栄える場所、わたしが共にいる場所」である。 だから、「わたしに見放されることも、見捨てられることもない、行く手に立ちはだかる者もいない。」とあります。 「神が共におられる場所」こそ、神の息によって生かされている私たちの魂の真の平安があるはずです。 私たちの魂を誘い、目を奪う、この世の様々な愛着物にしばらくさすらい続けたところから、「立って、共に川を渡って、入って来なさい」と言われているのです。 主なる神は、ご自身を慕い従う者の魂をご自身の「安息」の場として休まれると言います。 神が私たちの内に入ってこられて、一緒に憩われると言うのです。 神が憩われる「安息」の場となるように聖霊を注ぎ、「わたしが与えようとしている土地」で共に憩うようにと言っておられるのではないでしょうか。



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