「地上のすみかと永遠のすみか」 コリントの信徒への手紙二4章16節~5章10節
パウロは、「だから、わたしたちは落胆しません。」と繰り返しています。 様々な手紙の中で、「死」と向き合っていたことを赤裸々に「わたしたちが被った苦難についてぜひ知っていてほしい。 耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。 死の宣告を受けた思いでした。」と語っています。 死を目の前にして、絶望する、勇気を失う、気を落としてしまうような、死と隣り合わせのような状況ばかりです。 しかし、パウロは、「落胆しません。」 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる。」(4:14)からだと言うのです。 パウロは「外なる人」と「内なる人」という言葉をもって語ります。 肉体は汚れたもの、精神は優れたもの、汚れた肉体からの解放が人間の救いだというようなギリシャ哲学の二元論を語っているのではありません。 また、肉体は衰えるが、精神は益々新しく強くなるということでもありません。 「外なる人」とは、肉体も精神も含めた全体としての人間のことでしょう。 パウロの言う「内なる人」とは、神によって復活させられたイエスと共に生きる人、神の働きによって日々新たにされていく人ということでしょう。 私たちの心の中に、神の豊かな栄光とその霊の働きによって復活させたイエス・キリストを住まわせて、私たちの「内なる人」を強めると言っているのです。 ですから、パウロは、神がイエスと同じように私たちをも復活させてくださると知っているから、あるいは、そのイエスを内に住まわせ、イエスと同じ新しい命が神によって与えられているから「落胆しません」と言うのです。 併せてパウロは、「艱難」と「栄光」という言葉を用いて語ります。 「艱難」は、地上での一時のものである。 「外なる人」の営みによるものである。 一方、パウロの語る「栄光」とは、イエス・キリストが味わった復活に与かることです。 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10)と告白している通りです。 この栄光の重さ、復活の重さは、今体験している地上での「艱難」とは比べものにならない。 やがて自分にも訪れるイエス・キリストと同じ復活という出来事が、今味わっている「艱難」の事実の意味を変えてしまう。 一時の軽い「艱難」が、比べものにならないほどの重みのある「栄光、復活」をもたらしてくれる、創り出してくれるとパウロは言っているのです。 「死者の中からの復活」など、私たちの目には見えないものです。 「外なる人」の五感や理解や経験によって捉えることができないものです。 ですから、「目に見えるものではなく、目に見えないものに目を注ぎます。」と言うのです。 目に見えるものを見るなとは言っていない。 見えるもの、過ぎ去り枯れていくものに目を奪われてはならない。 永遠に存続するものを見なさいと言うのです。 「地上のすみか」と「永遠のすみか」という言葉をもってパウロは語ります。 人の手で作られた仮住まいのような「地上のすみか」ではない、神に備えられた「永遠のすみか」である。 「私たちを、その住みかに住まうのにふさわしい者に神がしてくださる。」と言うのです。 その保証として「聖霊」を与え準備してくださると言うのです。 「外なる人」の内に、神ご自身が新しく創造する「内なる人」をつくり上げてくださる。 「外なる人」の中に、神のみ言葉と聖霊の働きによって与えられた新しい「わたし」、神の恵みを感謝して受け取って「永遠のすみか」に住まう希望を確信している「わたし」が造り上げられるのです。 「内なる人」とは、この地上でも、死後の世界でも神がともにいてくださるという確信に生きる人のことです。