「私たちの再興のため」 ローマの信徒への手紙11章25~32節
パウロが、ローマにいる生まれたばかりの信徒の群れに呼びかけています。 「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」と異邦人信徒たちにたしなめるかのように言います。 「イスラエルの民はその不信仰、不従順のゆえに枝として折り取られました。 その代わりに、あなたがた異邦人が接ぎ木されました。 イスラエルの民に約束された祝福の源、その根から送り込まれてくる豊かな養分、恵みをあなたがたは受けるようになったのです。 だからと言って、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。 むしろ恐れなさい。 神の慈しみと厳しさを考えなさい。」とパウロは語るのです。 「神の選びについて言えば」、イスラエルの民は神に選ばれた、神のみ言葉を託された神の民です。 アブラハム、イサク、ヤコブの神がずっと愛している神の民であることに変わりありません。 「神の賜物と招きは取り消されることのない神の約束である。」と言うのです。 ところが、そのイスラエルの民が託されたみ言葉を守り行うことによって、自分の正しさを追い求めるようになった。 これが神の民になるための条件であると理解し、神から遣わされたイエスの語る福音の恵みを拒み、イエスを十字架に架けて殺し神の敵対者となってしまった。 まさに、放蕩息子の弟の行いをあげつらい、間違っていると自分の正しさに縛られて、父親の憐れみを理解することのできなかった兄の姿でしょう。 一方、異邦人は、かつては神を知らず、神を求めようとせず、神とは無縁のまま、神なき世界を漂い放置されていたのです。 罪も分からず、神の憐れみも知らない存在でした。 しかし今は、イスラエルの民の躓き、不従順によって、十字架の恵みが異邦人にもたらされて神の憐れみを受ける者となったのです。 まさに、したい放題のことをして、破綻してどうすることもできなくなって、自らの醜い姿を見つめさせられて、悔いて、父のもとにひざまずいて無条件の赦しと恵みによって戻ってきた放蕩息子の姿です。 パウロはその神の「秘められた計画」を、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」と結論付けています。 神は恵みの水路をせき止められる時がある。 一旦約束された恵みをせき止めてでも、救い出そうとされる時がある。 それはすべての人が、神の憐れみと厳しさを知るためである。 神のご愛、恵みに触れるためである。 しばしの間に神の憐れみと厳しさを知らされて、再び神の民として取り戻されるためであるとパウロは言うのです。
イスラエルの不従順は、自分たちの不従順から再び立ち戻る自らの再興のためです。 神は救いのご計画に従って、ご自身の民を打ち砕き裁くことによって、あるいは頑なな不従順に導かれることによって救おうとされておられるのです。 注がれる神の恵み、憐れみに私たちが気づくためです。 それに触れて味わうためです。 私たちの復興、再興のためです。 私たちを愛するがゆえに、神は私たちが考えもしない出来事を通して働いてくださるのです。 私たちの行いや有様やその報いによって、救いや赦しや祝福を私たちが受けるものではありません。 神はただご自身の豊かさから、そのご愛や恵みを私たちに分け与えようと憐れんで注ぎ続けてくださっているのです。 選ばれた民はたとえ途中で、不従順に陥ったとしても諦めてはならない。 神の選びは不変です。 約束は消え去ることはありません。 一時的な恵みのせき止めを通してでも、神は救いの恵みを与えてくださろうとしているのです。 一向に神の方に向きを変えない民もまた、神はその外から恵みとご愛をどっと流し込んでくださる時があるので、諦めてはならないのです。 私たちの不従順もまた神のみ手の中にあることです。