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「神の前に生きる者」 ローマの信徒への手紙3章21~26節 

2021-08-15

 パウロは、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にある。 正しい者はいない。 一人もいない。 全世界が神の裁きのもとにある。」 私たち人間が神のもとを離れ、神なき世界に漂ってしまう存在となってしまった。 神のもとから離れさせようとするこの世の力に、支配されるまでになったと述べています。 「ところが今や」新しい時代に入り、「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」 聖書に預言されてきたことが今や成し遂げられたと、パウロは語っているのです。 この「律法とは関係なく」という言葉は衝撃的な発言です。 ユダヤ人たちは、懸命に律法を守ることによって、神から与えられる「神の義」に至ることができると信じていた。 それにもかかわらず、パウロは「神の義は、ユダヤ人もギリシャ人の区別もなく、律法とは関係なく、神の恵みとして注がれるものである。」と宣言したのです。 命がけの宣言です。 「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である福音が示された。 その福音には、初めから終わりまで信仰を通して実現される、隠されていた神の義が示された。」(1:16-17)と大胆に定義し、宣言したのです。 ユダヤ人たちは、「自分たちこそ神に選ばれた神の民である。 祝福を約束してくださっている神に礼拝をささげ、犠牲の供え物も定められたように欠かさずささげている。 信仰のしるしとして割礼の儀式を済ませている。」 この律法さえ守っていればという「心地よい勘違い」があったのです。 神のもとを離れてしまっているという私たちの罪深さを巧妙に覆い隠すものが、私たちを納得させるかのようにこの世に溢れています。 パウロの言う「神の義」とは、破れた神と人との状態を神ご自身の方から回復させようとする神の救いの働きです。 その隠された「神の義」の働きが起こされた。 私たちの罪深さのゆえに、人間の側から修復しようとしても不可能です。 裁くのは神です。 裁かれる私たちの方から主張する資格などないのです。 ですから聖書は、「神が人を義となさる。 人が義とされる。」と表現します。 「神の義」とは、私たちがただ受け身として受け取る神の働きなのです。 そして、この「神の義」は、「イエス・キリストの贖いの業を通して与えられる」と言います。 
 聖書は、この「贖い」をふたつの意味で語ります。 ひとつは、捕虜や奴隷になった者を身代金を支払って買い戻すという「解放」の意味です。 もうひとつは、罪の汚れを動物の血によって拭い清め、神との交わりを取り戻すという「贖罪」の意味です。 パウロは、「イエス・キリストが私たちのために罪を贖う供え物となってくださった。」 イエス・キリストがその命をささげてくださった十字架のうえに、神が交わりの回復、和解の場を求めておられる。 イエス・キリストの信仰の服従と、神自らの裁きの痛みをともなったご愛によって、罪深さから解放される。 罪が免れる。 この「解放」と「贖罪」が、神のもとから流れ出てくる「救いの恵み」です。 罪にまみれた世界から私たちを救い出す「神の力」、救いに至らせる「神のご愛」です。 「神の義」が示され、福音が訪れ、新しい時代が始まったとパウロは宣言するのです。 この「救い」の出来事こそ、「ご自身の義を示すためだった。 同時に、イエス・キリストを信じるすべての人を義となさるためだった。」と締めくくっています。 「神の義」を示されたのは罪と妥協しない神の正しい裁きを示すため、何としても私たちを救い出そうとされるご愛のため、神との交わりを回復するためでした。 解決しないまま、先を見通せないまま、それでも神のみ前に生きて行こうとする私たちの懸命な姿を神は喜んでくださるのです。 そこには、神のもとからしか流れ出ない「神の力、ご愛、忍耐」が注がれるのです。



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