「私たちの中にある光」 ルカによる福音書11章33~36節
二つの譬えが、十字架を覚悟したイエスによって語られています。 「ともし火」の譬えと「目」の譬えです。 「ともし火は、入って来る人に光が見えるように、分かるように燭台の上に置かれるだろう。 決して、穴蔵の中や、升の下に置く者はいないだろう。」と言われます。 「ともし火」とは、イエスご自身のことです。 イエスは、「わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。 なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」(ヨハネ8:12,16)と言われました。 イエスによってもたらされた「命の光」を、人々が見えるように輝かしなさいと弟子たち、私たちに呼びかけておられるのです。 「目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい。 しかし、目が濁っていれば、あなたの全身も暗い。」と、「命の光」は目を通して全身にその輝きが行き渡ると言われるのです。 外に向けて「命の光」が家の中や周りを照らしているのが見えているでしょうか。 内に向かって照らし出す「命の光」によって、自分自身がどこにいて、どのような状態であるのか見えているでしょうかとイエスは迫るのです。 「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」と勧めておられるのです。 イエスにあって授けられた「命の光」こそ、私たちの力だけでは起こし得ないものです。 イエスとの出会いによって初めて起こされる輝きです。 このことを強く思わされる出来事が聖書に記されています。
イエスによって「生まれつき目の見えない人」が見えるようになった、シロアムの池での出来事です。 弟子たちが「生まれつき目の見えない人」を見て、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」とイエスに尋ねたのです。 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである。」と答えた有名なイエスの言葉です。 これは教えを説くために語ったのではなく、これからこの人に起こされる神の業が、イエスの目にはもうすでに見えていたからです。 「唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、シロアムの池に行って洗いなさい」と言われ、その通りに行ったその人の目は見えるようになり人々は驚いたのです。 問題はその後の時の経過です。 この人は自分の目が見えるようになった嬉しさの余り、だれが治してくれたのかさえ答えることができなかった。 ファリサイ派の人々の執拗な問い詰めに、この人は次第に自分を癒してくれたお方に目を向けるようになっていくのです。 「あの方が罪人であるかどうか、わたしには分かりません。 しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、神はお聞きになります。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」とまで、堂々と証言をするまでになったのです。 その直後、イエスはその場を追い出されたこの人に再び出会って呼びかけるのです。 その時です。 この人は、「主よ、信じます。」と言って、イエスのもとにひざまずいたと言います。 この告白にイエスは応えて、「わたしがこの世に来たのは、見えない者は見えるようになる。」という神の国の到来の現実を語られたのです。 肉眼が開かれただけでなく心の目まで開かれた、イエスの目には見えていた「神の業」が起こされ、「命の光」がそこに灯されたのです。 イエスは、「入って来る人にこの命の光が見えるように、人々の前に輝かしなさい。」と言われました。 神の恵みの世界は、この世においてこの「命の光」に照らし出された人々の群れの中に訪れる。 神の目に留まり、呼びかけられ、癒され、愛され、赦され、新しい命に生かされた者に、「命の光が消えてしまわないように調べなさい」とおっしゃっておられるのです。 イエスと出会い、迎え入れられ、語られるみ言葉に聴いてそれに身を委ねて生きることです。