「神の愛に気づきなさい」 ルカによる福音書10章25~37節
「律法の専門家」が立ち上がり、イエスを試そうとしたと言います。 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」 イエスに挑んだ「律法の専門家」が逆に、「律法に何と書いてあるか」と問い返されます。 仕方なく答えざるを得なくなった「律法の専門家」は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。 また、隣人を自分のように愛しなさい。」と律法に書いてあると胸を張ります。 イエスは同時に、「あなたはそれをどう読んでいるか」と尋ねているのです。 「あなたはそれを読んで、どう分かって、その戒めに沿ってどのように生きているのか」とその生き方に目を向けさせます。 「律法の専門家」は、自分の生き方から目をそらし、解釈の問題として「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ね返すのです。 その時にイエスが、この「善いサマリア人」の譬えを語られたのです。
私たちは、だれかを愛そうと決意して愛していこうとしても難しい。 頑張ってみても長続きしないこともよく分かっています。 「愛」は、私たちの意志によってコントロールできるものではありません。 聖書には、私たちが持ち合わせている「愛」のほかに、相手本位としか言いようのない、無条件の「愛」が区別された言葉で用いられています。 それが、神によってしか与えられない「神の愛」です。 この愛に満たされるなら、私たちの愛の貧しさをとことん知らされます。 自分が決意して築き上げるようなものではないことを知らされます。 自分の中にないこの愛に触れるなら、私たちは驚きと喜びと感謝に満たされます。 マザーテレサがこの神の愛をこう語っています。 「神は愛であり、愛は神から来るのですから、愛には限界がありません。 ですから、神の愛のうちに本当に身を置きさえすれば、神の愛に尽きることはありません。 肝心なのは愛することです。 傷つくまで与え尽くすことです。 どれだけのことをしたかではなく、あなたの行いに神から与えられた愛を込めたかなのです。」と言っています。 「傷つくまで」とは、その相手の人の痛みや悲しみや苦しみを自分のものとするということでしょう。 この「譬え」に出てくるサマリア人は、「その人を憐れに思い」と記されています。 この言葉が、同情するとか、かわいそうだと思ったとかを遥かに超えて、「はらわたがちぎれるほどの痛み、苦しみ」を受け止めたということです。 イエスが私たちの痛みや苦しみや悲しみをご自分のものとされた時に用いられた言葉です。 当時はユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲でした。 決して互いに交わることなどない関係でした。 だれしも、「道の向こう側を通り過ごしていく」のが、当たり前のところで、「追いはぎに襲われた人」が思いがけない人の助けを得た。 考えてもみなかった人から助けられた。 社会的な慣習には縛られない「憐れに思った」相手本位の無条件の憐れみが、そのサマリア人の原動力でした。 イエスは「善いサマリア人」の譬えで、無条件の、恵みとしか言いようのない父なる神の愛が、だれも見向きもしないところに働いたと言っているのです。 その神の愛に満たされたのなら、「行って、あなたも同じようにその愛を注ぎなさい」と送り出しておられるのです。 イエスを試そうとした「律法の専門家」に、戒めに記されている「愛しなさい」という定めを自分の愛によって満たそうとしている「律法の専門家」に、神の愛に触れてみなさい。 自分で築き上げる「愛」の貧しさに気づきなさい。 私たちの痛みや苦しみや悲しみを自分のものとして受け取ってくださる神の愛に触れるなら、自分もまた神の愛に触れるために、「隣人」の痛みや苦しみや悲しみもまた、神の愛が注がれるものしてと受け止められるはずである。 神の愛を祈り求めるよう、送り出してくださっているのです。