「イエスとのかかわり」 ヨハネによる福音書13章1~11節
イエスはついに、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟られた」とあります。 「父なる神がすべて御自分の手にゆだねられたこと」、「御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていること」を、この時イエスは悟ったと言います。 本来、神のものであったイエスがもとのところへ帰ると言うのですから、喜びであるはずです。 しかし、イエスは、父のもとへ帰る喜びよりも「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と言うのです。 そのイエスの愛が注がれた「世にいる弟子たち」こそ、イエスの思いとは裏腹に、「だれが一番偉いのか」、「これからだれが、イエスの右と左に座るのか」、それを競い合う情けない弟子たちです。 そこには、銀貨30枚でイエスを裏切る段取りを終えたユダがいます。 「あなたのためなら、命を捨てます」とまで言い切って、その言葉を反故にしたシモン・ペトロがいます。 イエスを信じ切ることのできなかったトマスもいます。 イエスに要求し、イエスを従わせようとまでしたフィリポもいます。 それぞれです。 最後までイエスに従った弟子はひとりもいません。 十字架をイエスと共にしたのは、弟子たちではなかったのです。 これが「世にいる弟子たち」、私たちの姿です。 その時のイエスの振る舞いが、「食卓の席から立ち上がった。 上着を脱いだ。 たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭いた。」姿であったと言います。 「足を洗う」とは、ユダヤ社会では召使いの仕事、目下の人が目上の人に行う振る舞いでした。 ですからペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と思わず尋ねてしまったのです。 そして、「わたしの足など、決して洗わないでください」と、むしろ自分が洗うべき逆であると思って叫んだのです。 それに対するイエスの言葉が、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。 もし、わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」という言葉であったのです。
「愛して、この上なく愛し抜かれた」弟子たちに、どこまでもかかわろうとするイエスの姿です。 何も分かっていないペトロも、疑うトマスも、自分に縛られているフィリポも、裏切る決意をしていたユダも、だれひとりイエスは切り捨ててはおられないのです。 今、イエスの最後の晩餐に与っている弟子たちこそ、イエスに従ってきた罪人の集まりです。 「もし、わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われた人々の集まりです。 これが教会という群れの始まりです。 かかわりをもとうとしてくださるイエスの憐れみによって、ひとつのものとされた集まりなのです。 そそっかしいペトロはイエスの言葉尻だけを捉えて、「主よ、足だけでなく手も頭も洗ってください」と答えたと言います。 イエスは、「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけを洗えばよい。」と言われました。 イエスは予てより、「だれでも水と霊によらなければ、神の国に入ることはできない。 人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と断言しています。 「イエスが主である」と公に言い表し、古い自分に死んで、新しい命に生かされる出発を水によるバプテスマによってした者は、もうすでに神のものにされている、「清い」と言われているのです。 イエスはそのうえで、「足を洗う」というイエスがかかわってくださる霊のバプテスマによって、今のそのままのあなたに十字架の贖いが全身に成し遂げられる。 神の子となるためには、わたしがかかわり伴なって歩むようにならなければならないと、「足を洗う」姿を通して語られたのです。 足を洗い終えたイエスが、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、互いに洗い合いなさい。」と言われたのです。