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「わたしを食べる者」 ヨハネによる福音書6章52~58節 

2021-02-07

 五千人の群衆を少年がもっていたわずか五つのパンと二匹の魚で養ったという奇跡を目の当たりにしたユダヤ人たちは、イエスを探し求めて押し寄せて来たのです。 この時に交わされたイエスとユダヤ人たちとの対話が、4回の「はっきり言っておく」というイエスの言葉をもって交わされています。 パンを食べてお腹が満たされたユダヤ人に対する最初の「はっきり言っておく」です。 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない食べ物のために働きなさい。」と言います。 物としてではなく、永遠の命に至る食べ物を求めなさいと言われたのです。 ユダヤ人たちにとって、「永遠の命を得る」ということは生きる目的でした。 イエスのその言葉にすかさず、「そのためには何をしたらよいでしょうか」と尋ね、イエスは「神がお遣わしになった者を信じることである。 それが神の業をすることになる。」と答えるのです。 「それでは、あなたを信じることができるように、あなたはどんなしるしをわたしたちに示してくださるのですか。」と、モーセが起こした昔の出来事と同じ奇跡を、今の自分たちにも示してほしいと迫るのです。 イエスは二回目の「はっきり言っておく」と言われて、「モーセが天からのパンを与えたのではない。 わたしの父である神が天からのまことのパンをお与えになる。 わたしが天から降ってきた命のパンである。 永遠の命に至る食べ物とはわたし自身である。」と答えたのです。 これを聞いたユダヤ人たちは、「イエスはヨセフの息子ではないか。 どうして天から降って来たなどと言うのか。」と呟き始めます。 三度目の「はっきり言っておく」です。 「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。 わたしが与えるパンとは、わたしの肉のことである。」 この不思議なイエスの言葉に激しく詰め寄ったユダヤ人たちに対して四回目の「はっきり言っておく」という言葉とともに、締めくくりとして語られた言葉が、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である。」という言葉であったのです。 
イエスの生涯全体を通して語ることのできる私たちであるなら、字句通りに捉えるのではなく、十字架で裂かれたご自身の肉と流された血を、赦しの恵みとして感謝して受け取ることであると言えるでしょう。 しかし、自分の腹を満たすパンを求め、自分が信じることができるよう「しるし」を求め、何をしたら手っ取り早く永遠の命が手に入るのかと迫るユダヤ人たちには、イエスのこの言葉を受け取ることは難しいでしょう。 イエスは嘆きをもって、憐れみをもって、「そのままでは、あなたがたの内に命はない。 その命の源である神との関係は、生きた関係とはならない。」と執り成して祈っているかのように響いてきます。 このように否定的に語られたうえでイエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたその人のうちにいる。」と言葉を変えて言われる。 「わたしが父なる神によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」ようになると言われる。 「食べてなくなるようなものではなく、天から降ってきたパンを食べるなら永遠に生きる。」と言われているのです。 イエスは、越えることのできない神と人との間にある溝について厳粛にこの否定的な言葉で宣言されたのです。 そのうえで、起こり得ないはずのことが起こされた。 神と人との溝を打ち壊す救いの出来事が起こされた。 イエスのうちに留まること、イエスがその人のうちに宿ることが赦されるようになる。 イエスが神に生かされているように、その人もまたイエスによって生きるようになる。 そのことが、イエスと同じ命に生きるものに変えられる約束の言葉として語られたのです。



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