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「叱られた僕」 マタイによる福音書25章14~30節

2020-12-06

 マタイによる福音書25章には、3つの「たとえ」が語られています。 「十人のおとめのたとえ」、「タラントンのたとえ」、「終わりの日のたとえ」です。 いずれも、思いがけなくやってくる「終わりの日」の姿を「たとえ」を用いて伝えています。 その日には、準備した者と準備をしなかった者、託されたものを用いた者と用いなかった者、最も小さな者の一人を助けた者と助けなかった者により分けられる。 神のみ前で「救われる者」と「滅ぼされる者」により分けられる厳粛な「精算の時」があることを、イエスは繰り返し伝えています。 
 1タラントンとは、現在の日本円にすれば五千万円から六千万円にも匹敵する大きなお金になると言われています。 金額の多寡はありますが、とてつもなく大切なものがそれぞれ僕たちに預けられています。 預けられているものは僕たちのものではなく、主人のものです。 ここでは、何かをしなさいと主人から命令されているわけでもなく、ただ預かっただけです。 当時のユダヤ社会では、お金を地中に隠し保管しておくことは一般的であったと言います。 なぜ、1タラントン預かった僕だけが主人から非難され、叱られ、託されたものを取り上げられ、外の暗闇に追い出されたのでしょうか。 「叱られた僕」は、主人から預かったものであるから絶対に失ってはならないと考えたに違いない。 商売をして失敗して、主人のものに損害を与えてはならない。 だから、当たり前のように地中に隠し、主人が帰ってくるまで厳重に保管しておいた。 主人が旅から戻ってきたので、責任を果たし終えたとほっとしたに違いない。 主人からは「よく管理した」とお褒めの言葉を待っていたのかもしれません。 この「たとえ」を道徳的に見れば、少しでも忠実に努力した僕たちが褒められたと思ってしまいます。 
 この「たとえ」は、「終わりの日」の神の国の情景をイエスが愛する弟子たちに語ったものです。 主人であるイエスが、弟子たちのもとを離れて神の国に戻って行かれる。 弟子たちはしばらくイエスを見失うことになる。 地上で語られたみ言葉やお姿を預けて、やがて再び神の国から戻ってくる。 その弟子たちとの再会の喜びを、イエスは語っておられるのではないでしょうか。 弟子たちが父なる神の恵みによって託された大切なものを感謝して、喜んで受け取って、イエスの留守の間、地上で生き生きとした姿を見て喜びたいと願っておられるのではないでしょうか。 「終わりの日」に父なる神の前に立たされて、「持っているものまで取り上げられ、暗闇に追い出される」恐ろしさを知っておられるイエスであるからこそ、「そのためにこれから、このわたしが十字架に向かう。」と、その直前に弟子たちにこの「たとえ」を語られたのではないか。 その恐ろしさを知る由もない私たちに替わって、イエスは「叱られた僕」となって、十字架のうえで味わってくださったのではないか。 主人の大切なものを託されたことを喜び、主人の思いに信頼と安心を寄せて喜んでいる僕たち。 僕たちの成果を見ているのではなく、その喜んでいる姿をご覧になって喜んでいる主人。 この主人と僕たちの関係は、喜びと信頼の関係です。 ところが、「叱られた僕」は、主人に対する目が怖れを生じさせ、「精算の時」の自分自身の申し開きだけを考え不安になってしまう。 自分が大丈夫と確かめたものでない限り、一歩も立ち上がろうとしない。 主人から預けられたものは、自分が何とかしなければ消えてなくなるものであるかのように考えてしまう。 主人と「叱られた僕」の関係が、義務と申し開きだけの関係となってしまうのです。 主人から託された財産とは、父なる神のみ心にに従って人間となってくださって十字架の上で死んでくださったイエスのことでしょう。 私たちになり替わって、「叱られた僕」となってくださったイエスのお姿を憶えます。



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