「起こされる反転の奇跡」 ホセア書2章16~19節
ホセア書は、姦淫の罪を犯した妻ゴメルとその夫である預言者ホセアとの夫婦関係を用いて、主なる神とその神が選び出したご自身の民との関係を示して預言者ホセアに主なる神が語りかけています。 ホセアの妻がどのような過ちを犯したのか詳しく語っていません。 分かっていることは、「愛人たちについて行こう。 パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」と言った。 その妻のふるまいに神が、「それゆえ、わたしは彼女の行く道をふさぐ。 石垣で遮ってその道を見出せないようにする。 彼女は愛人の後を追っても追いつけない。 尋ね求めても見出せない。 そのとき、彼女は『初めの夫のもとに帰ろう。 あの時は、今より幸せだった』と言うだろう。」 「彼女は、穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、バアルという神の像を造った金銀を、豊かに得させたのはわたしだということを知らないのだ。 彼女はバアルという神に香をたき、鼻輪や首飾りで身を飾り、愛人の後について行き、わたしを離れ去った。」と言ったと記していることです。 聖書は、神がイスラエルの民を選んで婚姻関係を結ばれた。 神がイスラエルの民を愛しておられたにも拘わらず、イスラエルの民はその他の神々に心を奪われて、その神々のもとへついて行って、神を忘れ去ったと語っているのです。 妻ゴメルの過ちこそ、神ご自身が選ばれたイスラエルの民の過ちです。 私たちの姿です。 妻ゴメルのようなイスラエルの民に神が厳しく叱責する一方で、この裏切りに満ちたイスラエルの民に向けて神が語り出したのが、今朝の聖書箇所です。
神はこの過ちを犯した妻ゴメルに、「それゆえ、わたしは彼女をいざなって 荒れ野に導き、その心に語りかけよう。」と言います。 「彼女」とは、愛人を追いかけて行こうとした妻ゴメルであると同時に、神に愛されてエジプトから救い出されて神の民とされたにも拘わらず、その神を忘れ去ったイスラエルの民です。 神ならぬものにうつすを抜かして、がんじがらめに縛られてしまった妻ゴメルとイスラエルの民を、それでも神は忘れることはなかった。 「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。」(11:8)と言います。 この憐れみが、「呼び出して、いざなって、その心に語りかける」と言わせているのです。 語りかけるために神は、「荒れ野に導く」と言います。 「荒れ野」とは、エジプトから導き出されたイスラエルの民が放浪したところです。 神がイスラエルの民に直接食べ物を与え、養い、顧みられた場所です。 神ならぬものに寄り添って生きていかなければならないようなところから離れてみる。 神ならぬものなどまったくないところ、人間が造り出す誘惑が存在しないところ、「荒れ野」に神はいざなって導くと言うのです。 もしかしたら、妻ゴメルにとって、イスラエルにとって、そして私たちにとって、とてもつらい体験となるかもしれない。 それでも神は神以外に頼るべきものが存在しない「荒れ野」に導き出し、放り込まれるのです。 これは、神の憐れみによるものです。 今のまま周りにある神ならぬものを頼りにして生きる限り、神と出会うことはできない。 私たちは何か頼るものが他にあるなら、神に頼ろうとしないのです。 神に出会うことができないのです。 しかし、何もかも失われ絶望するなら、他に頼るものがなくなれば、私たちは不思議と素直に神に頼ることができるようになるのです。 自分に宛てられた場所としてこの「荒れ野」を受け容れるなら、失われた神との正しい結びつきを回復する場所となるのです。 この「反転」こそ、神の奇跡です。 キリスト者の「証し」です。 そのきっかけが神の「荒れ野」への導きです。 これを侮ってはならないのです。 小賢しい知恵によって潜り抜けようとしてはならないのです。 その時こそ、神の変わらない憐れみの愛を知ることになるのです。