秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「出来事を起こされる主イエス」 マタイによる福音書9章9~13節

2020-10-04

「イエスはそこをたち、通りがかった」とあります。 そことは、イエスのご自分の町、カファルナウムという町です。 ガリラヤ湖畔随一の繁栄を誇っていた商業の中心地です。 ロ-マ帝国が税金を取り立てる収税所を設置し、軍隊を駐屯させたほどに重要視していたところです。 新たな宣教の地に向かう、その通りがかりにイエスが目を留められたのが「収税所に座っているマタイ」の姿でした。 マタイは収税所に勤務する徴税人です。 徴税人とは、ローマの権威を盾に正当な税額以上の取り立てをし、私腹を肥やしていた人たちのことです。 ユダヤの人びとからは忌々しい人々と疎まれていた人たちです。 そのころ、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、福音を宣べ伝え、民衆のあらゆる病気や患いをいやされた。 そこでイエスの評判が広まって、人々はあらゆる病人を連れてきた。」と言われています。 イエスは食事をとることも、休息をとることも、眠ることさえもままならなかったのでしょう。 イエスが祈るために静かな場所に退かれても、人々は先回りしてイエスを待ち受けたと言います。 そうした中、イエスに目もくれず、ただ収税所にじっと座っていたマタイの姿の方が、イエスにとって目を留めなければならなかった姿に映ったのでしょう。 そのマタイにイエスは、「わたしに従いなさい。」と呼びかけられました。 すると、座っていたマタイは立ち上がって、イエスについて行ったと言うのです。 マタイにいったい何が起こったのでしょうか。 マタイが何かを望んで叫んだとか、マタイの姿がどのように映ったから呼びかけられたとか一切の理由も説明もなしに、イエスは呼びかけられたのです。 そこに、この出来事のいぶかしさと驚きを憶えます。 
 徴税人とはどのような人たちであったのか、イエスはよくご存じであったでしょう。 人々からは後ろ暗い人たち、胡散臭い人たちと見られていた。 律法を守ることのできない人たちだと眉をひそめられていたのでしょう。 もし、一緒に食事をするあるいは一緒に歩くなら、その仲間であると思われても仕方がなかったことでしょう。 イエスは、周囲の群衆のイエスを求める姿とは正反対に、ただひとりご自身を一向に見つめようとしない、求めようとしないマタイの姿に深く憐れまれたのではないでしょうか。 そこで想定外の出来事が、マタイのうえに起こされた。 イエスが新しい宣教の地に出発するその時に、このひとり孤独に座っていたマタイを連れて行こうとされたのです。 このマタイがイエスの十二弟子のひとりに加えられたという出来事が起こされました。 当時としては考えられない「徴税人のマタイ」と注釈が付けられる人物がイエスの十二弟子に加えられたという驚くべき出来事が起こされたと聖書は言うのです。 徴税人たちは穢れた人たちであると、自分がその職業を選んだ自業自得であると人々は思ったに違いない。 事実、ファリサイ派の人たちは、徴税人や罪人と一緒に食事をしているイエスを見て、「なぜ、あなたたちの先生は、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」、間違っているとイエスを正します。 しかし、イエスは穢れた人であろうがなかろうが、その人の悲惨な姿に出会うことによって、深い憐れみから想定外の出来事を起こされるのです。 ホセア書を引用して、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」と、丈夫な人ではなく病人を、正しい人ではなく罪人を招くためであるとイエスは言われるのです。 イエスの目には、自分にしがみついて神のもとから離れて死んでしまっている神の前に失われている者と、自分を捨てて神のもとに帰ろうとしている取り戻される者の区別しかないのです。 イエスは手当が必要なすべての人を招くために、自ら罪人に数えられる中に厭わず入って行かれて、憐れみから発せられる驚くべき出来事を、必要とされるひとりのために起こされるのです。 



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元