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「赦されること 愛されること」 創世記4章1~12節

2020-09-13

「兄弟は他人の始まり」とはいい意味で使われている言葉なのかもしれません。 兄弟間での葛藤こそ、人を大きく成長させるものでもあるからです。 人類最初の人を殺してしまうという悲しい出来事が兄弟の間で起こったと言います。 兄カインは「土を耕す者」となった。 弟アベルは「羊を飼う者」となった。 それぞれ人間に神から託された務めを果たす者となったということです。 ところが、二人の神への感謝の献げ物から事が始まります。 兄カインは「土の実りを献げ物として持って来た。」 弟アベルは、「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」と言います。 なぜか神は、「アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と言います。 カインは弟アベルに向かって「激しく怒り」、神に向かっては「顔を伏せた」とあります。 私たちは神が目を留められる違いはどこにあるのか、あれこれと詮索してしまいます。 献げ物そのものの違い、献げ方の違い、献げる者の心の違い、献げる者の働きの違いなのかと思ってしまいます。 新約聖書では、献げ物は「信仰によって」献げるもの、神を愛するという思いから出てくるものであると言います。 神に対して今、献げなければならない最良のものを献げるという思いに神は目を留められたのでしょう。
 「激しく怒って顔を伏せたカイン」に、神は「どうして怒るのか」と呼びかけます。 神に顧みられなかった理由を、なぜ弟に求めるのか。 自分自身の中にある理由に目を背けるカインに、神は「どうして顔を伏せるのか。もし、お前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。 顔を上げよ、神の前に自分自身の姿を差し出せ。 そうしなければ、お前を支配している誤った思いに翻弄されてしまう。」と、カインを見捨てることなく悔い改めを迫ります。 人は自分を正当化するために、正しいことを言われれば言われるほど怒り出します。 すべてを知っているがゆえに、それを隠すために人は必死になります。 心の中に、神に隠さなければならないような思いが湧いてくるなら、そのままにしておいてはならない。 たとえ破れても、恥ずかしくても、もう一度向きを変えて、神の前から隠れていこうとするのではなく、神の前に向きを変えてありのままの姿を差し出して戻って来なさい。 「隠れた罪」は恐ろしく、お前自身を支配するものとなると言われたのです。 
 その甲斐なく、カインは弟アベルを言葉巧みに誘い出し、手にかけてしまうのです。 「お前の弟アベルはどこにいるのか」と神は呼びかけます。 神は「お前の弟」と言っています。 私たちの命は人とのつながりの中に生かされていると神は言います。 その呼びかけにカインは、「知りません。 わたしには関係ありません。」と答えたのです。 神から託された人との関係を自ら断ち、自らの務めを放棄したのです。 それだけではなく、神の前を立ち去り、「ノド」という地に住んだと言います。 「ノド」という地名は、動揺、あせり、不安といった意味合いでしょうか。 神に背を向けて、自分の身を守ろうとした地「ノド」。 神を二の次にして漂う、自分だけを頼りにうつろいごまかすこの世の姿を映します。 旧約聖書は、このカインの兄弟間の葛藤を物語ると同時に、もうひとつヨセフの兄弟間の葛藤の物語も記しています。 兄たちに荒れ野の穴に突き落とされ、遠いエジプトに奴隷として売り飛ばされたヨセフが、そのエジプトで頭角を現し、エジプトを支配するまでになったのです。 豊かに食糧のあるエジプトに助けを求めてやって来た兄たちをヨセフが赦す感動的な場面が創世記45章に記されています。 兄弟姉妹は社会性を鍛え合うばかりでなく、互いに赦し合うというかけがえのない経験をも与える関係であることが、そこには示されています。



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