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「カナンの女の信仰」 マタイによる福音書15章21~28節

2020-09-06

 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。 人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた。」と聖書にあります。 ここに出てくるシリアとは、今朝の聖書箇所にある「ティルスとシドンの地方」がこれに当たります。 「イエスはそのガリラヤを立って、ティルスとシドンの地方に行かれた。」と言います。 マルコによる福音書によれば、「だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」とあります。 精力的に宣教活動をしていたイエスの目には、ユダヤの指導者たちの姿は、「口先では神を敬うが、その心は神から遠く離れている。 人間の戒めを教えとして教え、むなしく神を崇めている。 彼らは盲人の道案内をする盲人だ。」とまで失望しています。 彼らに指導されているイスラエルの人びとを、「飼い主のいない羊のような有様である」と深く憐れんでおられます。 そのイスラエルの人びともまた、癒しを求めイエスに押し寄せては、癒しを与えてもらう。 にも拘わらず、その結果に満足してイエスのもとを離れ去ってしまう。 その繰り返しの姿に、イエスは失望もしておられたのではないでしょうか。 そのガリラヤを離れて、異邦人の地に退かれたということです。 神に遣わされたガリラヤの地を一時離れたということは、イエスにとっては特別な意味があったのでしょう。 父なる神との交わりを心静かに備えるために、退いて来られたのかもしれません。 その異邦人の地で、イエスは意図しないひとりの女性との出会いから、神のみ心を深く知られたのです。 その女性とは、「この地に生まれたカナンの女、自分の娘が悪霊にひどく苦しめられている女」とあります。 弟子たちにとっては、ガリラヤの時と同じようにここでもまた、病気のいやしを求めて大声でわめいている女がいる。 「あまりに大声で叫びながらついてきますので、癒して差し上げて、この女を追い払ってください。 この女の願いを聞き届け、立ち去るように願いを叶えてやってください。」と、弟子たちは思い余って言うのです。 聖書の言う信仰は、私たち人間の願いに神を従わせることではありません。 神が願っておられることに、私たちが応えていくことです。 彼女は異邦人でありながら、「主よ、ダビデの子よ」と、「あなたこそ、イスラエルの人びとの救いの為に遣わされるメシアです。」と告白します。 そして、「わたしを憐れんでください。 主よ、どうかお助けください。」と、イエスの前にひれ伏して申し出るのです。 この言葉には、あなたにすがるしか他に手立てはないのです。 諦めるしかないのです。 いや、諦めるわけにはいかないのです。 どうぞ、主よこの願いを受け取ってくださいという、絶望の淵に立った瀬戸際に立たされた者の祈りがあります。 「イスラエルという子どもたちのパンを取り上げて、小犬という異邦人にそのパンを与えるわけにはいかない。」というイエスの言葉に、彼女は「主よ、ごもっともです。」と答えます。 未だ、イスラエルの人びとが、自分たちの真の救いのためにイエスが遣わされていることに気づいていない時に、彼女はそのことを承知している。 しかも、「あなたこそ、そのために遣わされたメシアです」と告白している。 すでにイスラエルの人々が神の国に招かれている恵みに気づいている。 自分たち異邦人もまた、イスラエルに注がれた恵みのおこぼれに与り、その招かれた神の国の食卓からこぼれ落ちるパン屑に、私たちは恵みとして与ることができますと申し出た彼女の信仰を、イエスは「立派な信仰」と受け止められたのです。



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