秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「聖霊とは何ですか」 コリントの信徒への手紙一15章1~11節

2020-05-31

 聖霊が弟子たちのうえに降った時の様子です。 「一同が一つとなってともに祈っている。 そこに、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 炎のような舌が分かれ分かれ現れ、一人一人のうえにとどまった。」とあります。 聖書は、聖霊が降るのは突然である。 聖霊は、風が吹いてくるようなもの、天から降ってくるもの、神のもとからくるもの、一人一人に分かれてとどまるものであると言うのです。 イエスは、「見えるものではなく、信じることによって神の国に入りなさい。 生まれながらもっている命とはまったく異なる新しい命をいただいて神の国に入りなさい。 肉から生まれた者は肉である。 霊から生まれたものは霊である。 新しく生まれねばならない。 霊から生まれて神のものとならなければならない。 その霊は風のようだ。 思うままに吹く。 風の音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くか分からない。 霊は支配したり、自分のものにしたりできるようなものではない。 神のものである。」と言われたのです。 「聖霊が降る」ということは、自分の中から出てくるはずのない、神のもとからくるものが自分の中に宿り、それが生きて働くことに突然気づかされることである。 それは学んだり、守ったり、聞いたりするものを超えて体験するものであると言われたのです。 私たちの世界は、見えるものを見えないものに優先させてきた世界です。 確かめることのできるものを確めることのできないものに優先させてきた世界です。 見えるものだけしか、現実と思わない世界です。 少し前まで人間は、地球が宇宙の中心であり、太陽やその他の星は地球の周りを回っていると考えていました。 自分中心の世界からは決して見ることのできない神の世界があるのです。 人間の五感では見ることも、理解することもできない世界があるのです。 この膨大な世界を創られたお方のもとに憩う時に初めて、本当の安らぎと慰めがあるのでしょう。 ですから、私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ「信仰」に生きるのです。 永遠に変わることのないものに目を注いで、その身を委ねるのです。 コロナとともに生きる時代、この非接触を余儀なくされる時代にこそ、霊の目を凝らして見えないものに目を注いで、その信仰と祈りが与えられるよう求めざるを得ないのではないでしょうか。 パウロはこの体験をした代表者です。 「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者です。 使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」と告白しています。 しかし、パウロは自分が殺したイエス・キリストに出会ったと言うのです。 死んでこの世にいないと思っていたイエス・キリストが、自分が迫害しているその弟子たちの中に宿っていることをはっきりと見出した。 そのイエスは、「なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけられるお方であった。 「あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えるお方であった。 その姿を目で見ることのできなかったパウロに、アナニアという人の姿をとって直接出会われたお方であった。 人の中に宿り、その人を用いて直接働かれるお方であった。 その霊がパウロに満たされて、「パウロの目からうろこのようなものが落ち、再び新しく目が見えるようになった」のです。 パウロはこの「イエス・キリストの霊をもつ者」となったという体験を、ここで福音として語っているのです。 「今日のわたしがあるのはこの福音を受け入れたから、十字架につけられたキリストという霊を受けたからです。 わたしが働いたのは、この十字架につけられたキリストが聖霊という姿をとって、わたしに宿り働いてくださって、出会ってくださったからです。」と言うのです。



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