「福音の力」 ローマの信徒への手紙1章16~17節
パウロはその人生で大失敗もし、そして大転換もしています。 紆余曲折を経て、パウロはその生涯をイエス・キリストというお方とともに生きる、この十字架のイエス・キリストとともに歩む生涯へと身を委ねていきます。 このイエス・キリストに示された福音を語り告げる希望を、このロ-マの信徒への手紙に書き留めています。 単なる手紙ではなく、パウロが体験したその福音を広く告げ知らせるために書き記された、パウロによる福音書ではないかと思わされるのです。 先ず、パウロは、「わたしは、自分に与えられているこの福音を恥としない。」と言います。 パウロにしては「福音を恥としない」ではなく、なぜ「福音を誇りとします。」と叫ばず、このような消極的な信仰告白となったのだろうかと思わされます。
イエスが弟子たちに、十字架に架けられ殺されるという予告を語られた時がありました。 「わたしは長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、十字架に架けられ殺される。 そしてその三日後に復活することになっている。」とイエスが予告された時のことです。 ペトロは、このイエスのあまりの情けない予告に、「イエスをわきへお連れし、そんなことは言わないでほしいといさめた。」と言います。 これから自分たちの国の再興に向けて、その先頭に立っていかれるお方が、そのような惨めな情けない予告をしないでほしい。 毅然として、この世の権威である長老、祭司長、律法学者たちに、イエスこそ立ち向かって行ってほしい。 これが弟子たちを代表してのペトロの強い思いでした。 それにイエスはきっぱりと言われたのです。 「サタン、引き下がれ。 あなたは思い違いをしている。 神のことを思わず、人間のことを思っている。 わたしの後に従いたい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、わたしもまたそのものを恥じる。」(マルコ8:31~38)と、ペトロを叱って言われたのでした。 パウロは、イエスのこの十字架による死と復活は、神を信じる者にとっては躓きの出来事であったとよく分かっていた。 この世的には、神に最後まで従い続ける者の姿としての十字架に架けられて殺された姿は、無力で弱い者の象徴的な姿です。 愚かな敗北の姿にしか見えなかったのです。 パウロはそのことをよく分かったうえで、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリント一1:18)と言うのです。 ナザレの人イエス・キリストという人物に示された神の福音の出来事は、知識や教養では理解することのできないものである。 実体験した人でなければ、味わい知ることのできないものであるとパウロは承知していたのです。 ですから、パウロは、「福音を、人々が言うように恥とはしない。」 一度や二度の体験ではなく、日々新たに新しくつくり変えられていく恵みの体験である。 「福音は、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であるからである。」と断言するのです。 なぜ、このような私に救いがもたらされたのか自分にも分からない。 神のものとされる理由のない、資格のないこの私が、神のものにされたのか自分には分からない。 しかし、すべて神が説明してくださる。 これが神から与えられた福音である。 神ご自身が霊の力によって自ら働いてくださる神の力であるからだと胸を張って誇っているのです。 その神の力は、「初めから終わりまで信仰を通して実現される。」と語ります。 この神の力は信じる者の内に向かって働きかけ、その人を新しい姿へと造り変えるのです。 その力の向きは信じる者の願いではなく、神のみ心に向かって働きかけていくのです。 神に属する命とその輝きに与る者とされる。 それが今、現実の力や姿となると言うのです。