「敵意という隔ての壁」 エフェソの信徒への手紙2章14~22節
ローマで皇帝の裁判を待つために牢獄の中に収監されているパウロが、エフェソにいる信徒へ手紙を書き送っています。 この境遇を踏まえて、主イエス・キリストの福音のための「囚人」であると称しているパウロは、「だから、心に留めなさい。 忘れてはならないことを、いつも憶えていなさい。」と言います。 「あなたがたは、以前には異邦人であった。 律法も、割礼も、神も知らない民であった。 神の選ばれたイスラエルの民に属さず、神が約束してくださっていることも、神が招いて捜し求めてくださっていることも知らずに、この世で漂流していた寄留の民であった。 そうであるにもかかわらず、今や、イエス・キリストの十字架の死によってあなたがたの過去は赦された。 もうすでに神に近い者となった。 だから、心に留めておきなさい。」と言うのです。 留めおいておくその内容が14節です。 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」とパウロは言います。 政治や社会で言う「争いをしないとか、戦争をしないとか」というような「平和」のことではありません。 神との関係のことです。 神とつながっているのかどうかです。 神との関係が途絶えているのは、私たち人間の側に原因があるのでしょう。 神によって創られた私たち人間が勝手に神のもとを離れ、隠れて過ごすようになった。 神の側からの赦しがなければ、修復不可能な状態です。 そうであるにもかかわらず、神はご自身の方から一方的な赦しの提案、約束をしてくださったのです。 もし神との関係が断絶しているなら、神との関係を修復してもらいなさい。 この一方的な「和解」の神の申し出を、イエス・キリストの十字架において信じて受け取りなさいと言うのです。 ですから、イエス・キリストこそ、神との関係を修復させる神の「平和」そのものであると、エフェソの人々にパウロは語っているのです。
ここで注意しておきたいことは、キリストは「わたしの平和」ではなく、「わたしたちの平和」ですとパウロが言っていることです。 パウロの言う「平和」は、17節で「キリストはもうすでにおいでになった。 神と遠く離れている人たちにも、また近くいると思っている人たちにも、キリストはこの世においでになって、「わたしたちの平和」という福音をすでに告げ知らせてくださった。 キリストは、あなたがたと神との間の平和だけでなく、あなたがたの間にある「敵意という隔ての壁」を取り壊して、二つのものを一つにされただけでなく、ひとりの新しい人に造り上げてくださった。 ひとつの体として綴り合わすように、神と和解をさせて、ひとりひとりの間にある『敵意という隔ての壁』を十字架によって滅ぼされた。」と言うのです。 「敵意」とは、敵をつくるという心でしょう。 本来、ひとつであるはずのものがふたつに分断されているのは、この「敵意」からくるものでしょう。 これは「敵」の中にあるものではなく、こちら側の私たち自身の中に隠れているものです。 自分しか認めようとしない、敵の中にあるものだけを見て、裁こうとする頑なな心です。 自分の中にある「妨げ」を見ようとしないで、「敵」の中にあるものだけを見ようとする心です。 これこそ、キリストの十字架による赦しがなければ、取り払うことのできないものです。 しかし、その「敵意」はもうすでにキリストの十字架によって取り壊されている。 なぜなら、もうすでに私たちはこのキリストによって一つの霊に結ばれている。 神を父と呼んで神のもとに近づくことが互いに赦されている。 もはや、外国人でも寄留者でもなく、神の民に属する者、神の家族である。 この神の和解と赦しを得た「わたしたちの平和」のうちにある者である。 組み合わされたひとりひとりのあなたがたこそ、霊の働きによって神が宿る「神の住まい」となっているとパウロは言うのです。