「主イエスの十字架で叫ぶ姿」 マタイによる福音書27章45~56節
イエスが十字架の上で最後に見せた人間の姿の受け止め方は、福音書によって異なっています。 このマタイによる福音書では、「イエスは、大声で叫ばれた。 わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですかと叫ばれた。 そして、再び大声で叫び、息を引き取られた。 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった。』と言った。」とあります。 マルコも概ね同じように記されています。 ところが、ルカによる福音書によると、「イエスは大声で叫ばれた。 『父よ、わたしの霊を御手に委ねます。』 こう言って息を引き取られた。 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。」とあります。 ヨハネによる福音書によると、「イエスはすべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。 『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」とあります。 私たちが望む人間の最後の姿は、「静かに動揺することなく心穏やかに死を迎える姿」なのではないでしょうか。 また、死者を天に送る遺された者にとっても、「死」に至って平静に動じることなく、感謝して「死」を迎える姿であってほしいと心から願うでしょう。 ましてや、私たちが信じて従ってきたイエスの最後の姿は、ルカが語るように、父なる神にすべて委ねる姿であってほしい。 ヨハネが語るように、地上の生涯を終えて、晴れ晴れと父なる神のもとへ戻って行かれた姿であってほしい。 マタイやマルコが語るような、神を恨む言葉にとられかねない言葉を聞きたくない。 どのような状態に置かれたとしても動じない、強くて立派な正しい人であってほしい。 これが私たちの思いではないでしょうか。
イエスにとって、肉体の痛みや苦しみなど問題ではないでしょう。 人々から、弟子たちからでさえも見捨てられるということなど、大した問題ではなかったでしょう。 イエスが痛み、苦しんでおられるのは、父なる神から捨てられるという孤独な立ち位置に立たされている現実です。 神のもとから引き離そうとする罪の力は、神によって裁かれなければならない。 神が曖昧にしておくことのできない、毅然として立ち向かわなければならないものです。 イエスが、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と言われたように、この世の虜となって、罪に縛られているこの私たちを救うために、何度も招き続けてくださっているのです。 その招きを受け取ろうとしない私たちの罪を見逃すことのできない、裁かなければならない神としての痛みがあるのです。 この神と人との交わりを破壊するものを一身に引き受けて、私たちを赦してくださったこの「裁きと赦し」が、神の憐れみであった、恵みであった、愛であったと私たちは知らされたのでした。 マタイ、マルコは、この神ご自身の叫びを、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びに凝縮したのではないでしょうか。 十字架に架けられたイエスの姿こそ、私たちが受けなければならない人間の行き着く先の姿です。 見物人の立場で傍観しているだけなら、このイエスの十字架の姿は何も語らないでしょう。 「わが神」と叫んでいるイエスの中に、この「わたし」がいなければならないはずです。 神の前に裁きを受けているこの「わたし」がいなければならないはずです。 神のもとから遣わされた者を受け取ることなく、十字架に架けてしまった「わたし」の姿があるはずです。 最後の最後まで父なる神に信頼し、詩篇22編の冒頭の言葉を叫び、呼びかけておられるイエスの姿は、絶望してうなだれて、弱さをさらけ出して、それでもすがって再び立ち上がる人間の姿をからだをもってイエスご自身が示しておられるのです。