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「輝かせ、主イエスの光を」 ヨハネによる福音書12章27~36a節

2019-05-12

 主イエスは、「わたしは、世の光である。 わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(8:12)と言われました。 もう少し詳しく、「わたしは、世にいる間、世の光である。」(9:5)とも言われています。 「世にいる間」です。 35節に、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。」と言われている通りです。 「いま、しばらく」とは、聖書の言う「終わりの日」が到着する前ということでしょう。 「もうすでに、神との交わりを失っている者は暗闇を歩いている者である。 暗闇に中に沈み込んでいる者である。 暗闇の中を歩く者は、どこへ行くのか分からない者であるから、神との交わりを失って自分が暗闇の中にいることさえ見失っている者であるから、わたしの光のもとへ来なさい。 暗闇に追いつかれないように、光を見出して、光の中を歩きなさい。 光のあるうちに、光の子となりなさい。 その光がこの暗闇の中にあって歩くべき道を導いてくれると信じなさい。」と、私たちを暗闇に中から救い出すために、イエスは招いておられるのです。 「暗闇を照らす光である」と、イエスはご自身のことを言われたのです。 終わりの日がくるまでの、いましばらくの間、この世にある間、神を失ってしまったこの世に、暗闇となってしまったこの世に、もう一度、この世が暗闇となっていることを知らせるために遣わされた光であると言われたのです。 イエスの光こそ、暗闇を背負っている光です。 
 その姿が、イエスの祈りに表されています。 「今、わたしは心騒ぐ。 父よ、わたしをこの時から救ってください。」 これが、人間のからだを背負われた神の子の姿です。 他の福音書が語るゲッセマネの祈りの姿です。 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」 これが、十字架を直前にした、この世に遣わされた神の子の、苦悩に満ちた祈りの姿です。 しかし、この苦悩の祈りが、「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」という祈りに変えられている。 その時です。 天からの声、「わたしは既に栄光を現した。 再び栄光を現そう。」という力強い声が、イエスのもとに天から届いたのです。 ルカによる福音書では、「天使が天から現れてイエスを力づけた」とあります。 イエスとても、父なる神のもとからくる力に支えられたのです。 イエスの光は、深い暗闇の中に照らされた光であったのです。 イエスはこの天からの声に確信して、「この声がしたのは、わたしのためではないのだ。 わたしと同じように暗闇の中に祈り、動めいているあなたがたのためである。 この神のもとへと立ち帰るために歩いて行く道を照らす光を、あなたがたが見つけ出して、その光のもとで歩いて行くなら、わたしと同じように父なる神のもとへたどり着くことができる。 そのことを信じることができるようになるためである。」と言われたのです。 主イエスの光は、私たちを導くために、今あるそのところが暗闇であることを知らせ、そこから解放する力です。 「わたしを救ってください」という祈りが、「あなたの御名を現してください」という祈りに変えられている。 暗闇を背負ったままでも、天からの力によって変えられて、神のもとに戻ることができると信じることができるようになる。 主イエスの光は、暗闇の中にいる間に神の力によって変えられて、招かれた道を信じて歩いて行くことができるようにと招く光です。 その光が私たちの中に宿るために、その器をたやすくつくり変える力をもっています。 イエスは自ら輝くために、どのような器であったとしても、つくり変えてくださるのです。 私たちは、その光が宿るために宿る場所を空けておくこと、迎え入れることができたなら宿し続けること、イエスの光が宿り続けるならありのままの自分を差し出して、その光で照らしていただきつくり変えていただくことです。



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