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「罪のシンボル」 ヨハネによる福音書19章31~42節

2019-04-14

 「死んで墓に葬られ、納められたイエス」が語られています。 十字架刑に処せられた者は、その十字架の上で苦しみもだえます。 その苦しむ姿こそ人々への見せしめです。 しかし、安息日を汚さないため、安息日にはその十字架から遺体を取り降ろそうとします。 息を吹き返し逃げ出さないよう、念には念を入れて受刑者の足の骨を折ると言います。 更に、その死を確実なものとするために槍でわき腹を刺すと言うのです。 しかし、イエスの足の骨は折られることがなかった。 槍で刺されたイエスのわき腹からは、水と血が流れ出たと記されています。 旧約聖書には、「過ぎ越しの祭りにささげられる小羊の骨は折ってはならない」と書かれています。 イエスは「過ぎ越しの祭りにささげられる小羊」として十字架に犠牲としてささげられたと告白しています。 血は契約の血を表し、水は汚れを洗い流すと言います。 イエスの十字架の死こそ、私たちを贖うために父なる神にささげられた「死」であると告白しているのです。 ですから、イエスはその頭を垂れて息を引き取る直前に、「成し遂げられた」と一言語られたのです。 新改訳聖書では、「完了したと言われた。 そして、頭をたれて霊をお渡しになった。」と訳されています。 イエスは「成し遂げられた」と語って、ご自身の霊を私たちすべての人に向けて渡されたのです。 
 そのイエスの遺体を埋葬したのは、アリマタヤのヨセフ、ニコデモであったと言うのです。 アリマタヤのヨセフとは、ローマ総督に「遺体を取り降ろし、葬りたい」と直接願い出ることができるほどの立場にあった人です。 地域を代表する長老の議員です。 ニコデモとは、かつて人目を忍んで夜中にイエスのもとにやってきた人物です。 ファリサイ派に属する裕福な議員です。 どちらもイエスを信じていたが、ユダヤ人たちを恐れてそのことを公然と言うことができなかった人です。 イエスとともにいた弟子たちはその場から逃げ去っていたのに、そのような臆病なふたりが勇気を振り絞って、公然とイエスの遺体を引き取り、遺体を安置する墓穴に香料を添えてイエスを最後に葬ったというのです。 十字架は、この世に対して輝く神の救いの象徴です。 神の愛、赦しの象徴です。 しかし、忘れてならないことは、このイエスの十字架こそユダヤの大祭司が自分の立場を守るために、もっともらしい理屈を正当化して危険人物と思われたイエスの命を奪った道具です。 ローマの総督が、本意ではないのにユダヤの人々を恐れてその意に流されて、自分の身を守るためだけにくだした死刑の道具です。 人の過ちと弱さと醜さが込められたシンボルです。 この世に留まろうとした人々が、この世の霊にそそのかされて過ちを犯してしまった道具です。 よりによって、神のもとから遣わされた神の子まで殺してしまった道具です。 私たちは、復活の朝、イースターを迎えるその前に、この十字架というシンボルによって命を奪われたイエスの「死と葬り」に目を向けなさいと、聖書はありのまま語っているのではないでしょうか。 イエスを十字架につけたのは、大祭司ですか。 ローマの総督ですか。 ファリサイ派の人々ですか。 逃げ出した弟子たちですか。 何もせず、ただ傍観していた群衆ですか。 私たちは、この十字架の周りを取り囲むものに気づかなければならない。 十字架のもとに潜んでいる、私たちの奥底にあるものに目を向けなければならない。 そこにふたをして、見ないようにしてはならない。 イースターの喜びを前にして、十字架のイエスとともに葬り去られたもの、打ち砕かれたものがあることに気づかなければならない。 イエスの遺体を葬ったふたりは、葬らなければならない古い過去の自分を、神の働きによってイエスとともに葬ることができたのです。 これが、復活の出来事の備えです。 



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