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「立て、行こう」 マタイによる福音書26章36~46節

2019-03-24

 イエスは最後の晩餐の中で、すでに「弟子たちのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」ことを見抜いておられました。 いよいよ、その者が身近に迫ってくる、その緊迫した時です。 イエスはいつものように、いつものところで、父なる神との交わり、祈りの時をもっておられたのです。 イエスは弟子たちに言います。 「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。」 これから十人の弟子のうちの一人ユダに率いられた人びとに捕らえられ、裁かれ、十字架に架けられ、死に及びます。 父なる神のみ心である十字架の死という出来事によって引き起こされる、弟子たちとの「別れ」がここに示されています。 この地上に愛する弟子たちを残して、ひとり孤独の中に去って行かれたイエスの姿が象徴されています。 その時のイエスの言葉です。 「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。 誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈っていなさい。」 イエスが弟子たちに最後に教えられたこと、それが「祈ること」でした。 今からイエスご自身の無残な十字架の姿に直面しなければならない弟子たち、ここに留まり、離れないでじっと座っていることさえもできなくなってしまうであろう弟子たちに、「ここを離れてはならない。 ここに留まっていなさい。 目を覚まして起きて、祈り続けなさい。」と、その緊迫したなかで弟子たちにイエスは告げられたのでした。 
 同時に、イエスはご自身の「悲しみもだえる姿」、「わたしは死ぬばかりに悲しいと訴える姿」「うつ伏せになって、万策尽きたかのような姿」を、弟子たちにお見せになるのです。 「父よ、できることなら、この杯を、わたしから過ぎ去らせてください。」と訴える姿を、わざわざお見せになるのです。 イエスはそのような弱さをもった人の姿をとったうえで、「しかし、わたしの願いどおりではなく、み心のままに。 あなたのみ心が行われますように。」と祈っておられるのです。 それも三度も同じ言葉で祈られたと言うのです。 そのような切実な祈りを続けておられるイエスの傍らにいる弟子たちの姿が、「眠っていた」姿、「ひどく眠かった」姿でした。 弟子たちはイエスの言葉に従うことができませんでした。 イエスと共に祈るこができませんでした。 弟子たちだけではありません。 父なる神からも何の応答もなく、神の沈黙のなかにありました。 弟子たちからも、父なる神からも見捨てられ、孤独の中にありながらも、なぜイエスは「あなたのみ心が行われますように」と確信をもって十字架の道に歩むことができたのでしょうか。 
 この神の沈黙は、罪人の滅びを代って担う捨てられる苦しみをイエスに味わせることになる父なる神の悲しみです。 イエスの願いを聞き入れることのできない、共に苦しんでおられる父なる神の痛みです。 ルカによる福音書は、「天使が天から現れて、イエスを力づけた」と記しています。 父なる神は、この「杯」を乗り越えることができるようにと、神のもとから力を与えられたのです。 神の沈黙は、イエスが神に従うための備えの時でした。 神は、「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なる。 わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8-9)と言われます。 この確信に至ったイエスは、立ち上がって十字架の道を歩み進められたのです。 眠り込んでいる弟子たちに、父なる神の答えのないまま天からの力を受けて、確信をもって「時が近づいた。 罪人たちの手に、わたしは引き渡される。 立て、行こう。」と裏切り続けた弟子たちに呼びかけ、眠り込んでいる弟子たちを呼び起こしておられるのです。 弟子たちの弱さを十分ご存じのうえで、すべてを赦したうえで、「時が来た。 起きなさい。 立ち上がりなさい。 一緒に立って、歩んで行こう。」と言われたのです。神の沈黙が与えたもの、それが「イエスの復活」です。



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