「わたしが愛したように」 ヨハネによる福音書13章34~35節
イエスは十字架に架けられる前の晩、弟子たちの足をひとりずつ洗い終え、その足を洗った弟子たちのうちのひとりユダが出て行った後に、「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。」と語られました。 奴隷である僕が行うような「人の足を洗う」というイエスが取られた振る舞いの意味を、弟子たちは理解することができなかったでしょう。 事実、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と不思議がっています。 そのイエスに向かって、「わたしの足など、決して洗わないでください。」とまで、真剣に断っています。 そのペトロにイエスは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、もし、わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と答えておられるのです。 そして、弟子たちすべての足を洗い終えたイエスは、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに洗い合わなければならない。」と、十字架に架けられるその前の晩に弟子たちに語られたのでした。
一人一人の汚れた足を見つめながら、腰を静めて丁寧に洗い流す。 私たち人間の汚れている部分をご自身が引き受けられて、その過ちを贖ってくださる。 そのイエスを通して注がれた「神の愛」、「救いの招き」を、ひとりユダだけは受け取ることなく、その場から出て行った。 その直後にイエスが、「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。」と語られたと言うのです。 「自分を愛するように隣人を愛しなさい。」という律法の戒めがすでにあるのに、イエスはなぜ「新しい掟を与える」と言われたのでしょうか。 それは、「わたしがあなたがたを愛したように」です。 「昔の人の言い伝え」とされている戒めに、「イエスがわたしたちを愛したように」愛することを加えたということです。 イエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。 わたしの愛にとどまりなさい。」と言っておられます。 イエスご自身が体験されておられる神の愛です。 同じように、ご自身を十字架にささげるまでに私たちを愛してくださっているイエスの愛です。 そのように示された神の愛にとどまることによって、互いに愛し合いなさいと、イエスは新しい掟として語っておられるのです。 イエスに足を洗われて初めて、私たちもまたその隣人の足を洗うことができるようになる。 過ちをイエスの十字架によって赦されて、贖われた者だけが、互いに神の赦しによって愛し合えるようになる。 そこには、その過ちに気づいた人の涙がある。 砕かれた時の痛みがある。 イエスの十字架によって砕かれ、つくり直され、赦された人の喜びがあるのです。 イエスはそうした者たちだけが、互いに愛し合えるようになると言っておられるのです。
イエスになぜ、多くの人々が群がってきたのだろうと思わされます。 貧しい人たち、悲しむ人たち、社会から見捨てられた人たちでした。彼らがイエスの驚くばかりの教えをそのまま理解し、受け入れたとは到底思えない。 しかし、同じ肉体をもった人としてのイエスの深い憐れみが、人々の心を捕らえたのでしょう。 イエスの分け隔てのない言葉と振る舞いに、彼らが本当に求めていたものを感じ取ったのでしょう。 イエスの示す憐れみに、この世にない「神の愛」を感じ取ったのでしょう。 ユダヤ人も異邦人もない。 自由人も奴隷もない。 男も女もない。 かけがえのない人として愛しておられるイエスのまなざしに彼らは魅かれて、この世にない「愛」を感じ取ったのではないでしょうか。 人が神に赦される、愛されるということが、人を根本的に生き返らせるのであるということを、彼らはイエスの姿と語る言葉の中に感じ取った。 神を見ることができたのではないでしょうか。