「わたしの時」 詩編90編1~12節
詩編90編は、「神の人モーセの詩、祈り」と書かれています。 モーセと言えば、エジプトの地からその奴隷として虐げられていた同胞のイスラエルの人々を救い出した「偉大な指導者」と私たちは表現するでしょう。 しかし、モーセの生涯を考えてみてください。 生まれてすぐイスラエル民族への迫害のゆえにエジプトのナイル川に流されるという、悲しい出来事からその生涯が始まっています。 しかし、神はその赤ちゃんをよりによってエジプトの王女に拾わせ、エジプトの王宮の中でモーセを育て必要な教育を受けさせたのです。 成長したモーセは、同胞であるイスラエルの人々の苦しい奴隷の姿に憤り、迫害するエジプト人を殺してしまう。 苦役に縛られているイスラエル民族の解放のために立ち上がるが失敗し、失意のうちに荒れ野で羊を飼う生活に入り込んでしまうのです。 ここでも、神はご自身が選んだモーセを再び立ち上がらせ、エジプトに向かわせるのです。 神のイスラエル民族の救いのご計画の担い手として立たせ、同胞の人々の不信仰に何度も悩まされながらも、エジプトの反撃に遭いながらも、自然の脅威に襲われながらも、40年もの間、エジプトから連れ出してきた人々とともに荒野をさまよい、ついに約束の地カナンを目の前にするまでに至ったのです。 そこでモーセは体力、気力とも満ち溢れていたにも拘わらず、その生涯を終えたのです。 モーセだけは約束の地に一歩も入ることが赦されなかったのです。
このモーセが神に向かって、「大地が、人の世が生み出される前から、世々とこしえにあなたはわたしたちの宿るところ」と歌い始めるのです。 そのように私たちは創られたはずなのに、私たちはその神のもとを離れて、漂う者、移ろう者、しおれる者、枯れゆく者、消え去る者、飛び去る者となってしまった。 あなたはとこしえに変わりなくおられるお方。 しかし、私たちの人生はたかだか70~80年、本来宿るべきところを忘れてしまった私たちは、このようにはかない者となって、はかない人生を送るようになってしまっていると言う。 その理由を、神が「隠れた罪」を光の中に置いて、明るみにされたと言い、神の憤りが私たちに迫っても不思議なことではないと言う。 神はこのような罪深さに気づかず、驕りの中に沈み込んでいるこの私たちを、土の塵に返すお方です。 そのように扱われても仕方のない私たちです。 これだけエジプトから救い出されても、不平や不満を言い、もとに戻ろうとする。 同じことを繰り返してしまう人々の自分勝手な姿を通して、モーセは気づいたのです。 また、やりきれない自らの思いから、神の約束を受け取ることができなくなる自分自身の姿を通して、私たちはすべて死ぬべき存在であると分かったのです。 自分たちがいかにはかない存在であるのか。 神を恐れないで自分勝手に動いてしまう存在であるのか。 その本当の姿をはっきりと自覚したその時です。 「人の子よ、帰れ」 「あなたを塵に返す。 あなたは、わたしのもとへ帰れ。」という神の声がこだましたのです。 モーセは神の命令によって、体力も気力も十分にあったにも拘わらず、自分の死を受け入れて人々の罪深さを背負って、ひとり神のみ心によってそこに留まったのです。 モーセは、神の厳粛さを知り尽くすと同時に、「選ばれて、用いられて、ここまでみ心を果たし終えたモーセよ、わたしは人を塵に返す者である。 そのわたしのもとへ帰れ。」という神の招きに癒されたのです。 彼の願いは約束の地に入ることではなく、神に用いられることでした。 自らの人生はこの神のみ手の中にあったのだと確信して、その喜びに同胞のイスラエルの人々が与るようにと、「生涯の日を正しく数えることができるように教えてください。 塵に帰る私たちの肉体の死が、神のもとに赦されて帰る喜びの日となるように。」と、モーセは祈るのです。