「神を忘れる」 創世記3章1節~7節
主イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。 だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と断言されました。 もし、イエスの言われるように、私たちがしがみついているこの世界とはまるで違う、神の国という世界があるとするなら、そのような世界に入りたいと心から願うのであるなら、「新たに生まれる」ということの意味について目を向けなければそのような世界に入ることはできないでしょう。 「新たに生まれる」ということにたどり着くまでには、どうしても遡っておかなければならないことがあります。 神が最初の人間「アダムとエバ」に呼びかけられた出来事です。
エデンの園というところに置かれた人間に、神は「園のすべての木から取って食べなさい」と祝福されました。 人間は、「そこを耕し、守るようにされた」とあるように、神によって備えられた世界に感謝して管理する喜びを与えられたはずでした。 ところが、その神の祝福を告げるこの言葉とともに語られたもうひとつの言葉があります。 「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」という戒めでした。 そのエデンの園の中央に生えいでさせられた「善悪の知識の木」は「命の木」と隣り合わせです。 神に似る者となるために必要な「命の木」が与えられて、神に似た賢さと力を得ることができる。 しかし、神に似ることはできても、人間は神になることはできない。 「命の木」と「善悪の知識の木」こそ、このことを示すものでしょう。 人間は神に似る者となることが赦されていると同時に、神のもとを離れて生きていくことができないことを示しているのでしょう。 そこに、人間を誘惑する者として「蛇」が登場します。 神の戒めから引き離そうとする力が「蛇」です。 神は「すべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは食べてはならない。」と語られたのに、「蛇」は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と、神の言葉への疑いをもたせようとエバにささやきます。 ついには、神の言葉を否定するまでにささやきます。 このささやきにエバは、アダムの助け手であることを忘れて、単独で神の戒めを破ります。 アダムまで巻き込んで、戒めを破って手にしたその実を渡してしまうのです。 人間は、神によって授けられている賢さと力におぼれて、神を忘れてしまうのです。 神はご自身に似せて形づくり、応え合える関係を築こうと呼びかけているのに、アダムとエバは神の前から隠れてしまうのです。 これは、伝説の昔話でしょうか。 私たちの今の現実の生活のなかにある姿でしょう。 神の前から離れて行って、自分たちがつくり上げるもので生きていこうとする私たちの現実の姿でしょう。 自らの賢さと力を追い求めて旅立ったふたりの目が開かれて見たものが、恐れと不安と恥ずかしさです。 神から離れた人間のあらわな姿です。 「いちじくの葉」は、それを取り繕うものでしょう。 神はこの世を「すべてよし」として祝福されたのです。 しかし、私たちは、神のもとから相談もしないで自分勝手に出て行った者です。 その私たちに、「どこにいるのか」と神は尋ねておられる。 場所を尋ねているのではない、ご自身との関係を心配しておられるのです。 すべてをご存じのうえで、「命じておいたものを守ることができなかったのか」と呼びかけて、戻ってくるようにと語かけておられるのです。 「蛇」のささやきも、蛇によってもたらされているかのようにみえる「悲しみも苦しみ」も、理不尽な出来事も、また私たちの思いをはるかに超えた喜びも驚きもすべて、神がその存在を赦し、私たちをご自身のもとに取り戻すために用いられておられることであると信じます。 「人は、新たに生まれ、神のもとに帰らなければならないのです。」