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「光を輝かしなさい」 マタイによる福音書5章13節~16節

2018-10-21

 「あなたがたは、地の塩である。」とイエスは言います。 「あなたがた」とは、イエスの後に従って山の上にまで従ってきた弟子たち、イエスのみ言葉を聞くためにそば近く寄って来た弟子たちです。 その弟子たちに、「心の貧しい人々は幸いである。 天の国はその人たちのものである。 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、大いに喜びなさい。 天には報いがある。」と語り、「あなたがたはこの地上で、すでに味付けられた塩である。」と語られたのです。 当時でも、塩はとても貴重な存在でした。 食べ物の腐敗を防ぐもの、料理には欠かせないものでした。 イエスは、これから「地の塩になる」と言っているのではありません。 頑張って「地の塩になりなさい」と言っているのでもありません。 あなたがたが望もうと望まなくとも、それにかかわらず「地の塩である」と言われるのです。 たとえ力もなく、取るに足りない、小さな存在であったとしても、イエスご自身に選ばれて、招かれて、従ってきた者として、「あなたがたはすでに地の塩になっている。 この地において、味付けられた塩であることを赦されている存在である。」と宣言されているのです。
 更にイエスは、「あなたがたは、世の光である。」とも言います。 「光」としてすでに輝いていると言われるのです。 イエスご自身は、「わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ。」と言われました。 「光」であるイエスご自身と結ばれている限り、このイエスのもとにとどまる限り、あなたがたの中に、イエスの光が宿るようになる。 イエスの輝く光を受けて、あなたがたもまた「この世の光」となることが赦されると言われるのです。 「光」はすべてのものを照らし出す、隠れていることのできないものです。 「だから、そのように、あなたがたがその内に宿している光を人々の前に輝かしなさい。」と言われたのです。 それは、あなたがたが素晴らしい姿となって輝くためのものではない。 「あなたがたが、そして映し出されたあなたがたの姿を見た人々が、あなたがたの天の父を崇めるようになるためである。」と言われたのです。 その素晴らしい輝きを自分のものにしようとしてはなりません。 この輝きこそ、イエス・キリストの輝きが映し出されているものにすぎません。 人間を美化してはなりません。 私たちの「光」ではないのです。 イエスの言う「光を輝かす」とは、イエス・キリストの光を照らすということです。 イエスの弟子であり続けるということ、イエス・キリストの光を指し示すということです。 イエスの言う「あなたがたの立派な行い」とは、とてもそのような器に無いような私たちを通して、何の力もない、魅力もない、ありきたりの小さな生きる姿にこそ、神が十二分に働かれると祈り、願い求めることです。 神が必ず働いてくださると確信をもって信じて、祈ることです。 「地の塩である、世の光である」ことが赦されているこの祝福を、感謝して受け取ることです。 その喜びに応えて、神を礼拝し、神の祝福を証しし、告げ知らせることです。 塩が塩のままでとどまっていては、塩は効き目を表すことはできないでしょう。 授けらされた「塩味」は、塩自体の存在が隠れて、溶け込んでいくときに効き目を発揮するでしょう。 一方、「光」は誰からみても明らかな存在です。 隠すことなどできないものです。 イエスは「あなたがたは、地の塩であると同時に、世の光である。」と言われたのです。 この世に、味がわからなくなって埋没してはならない。 地の塩であることをやめてはならない。 だからと言って、自分を誇示して、イエスの輝きであることを忘れてはならない。 イエスは、「地の塩として、世の光として、わたしの光を臆せず人々の前で輝かしなさい。」と言われたのです。



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