「教会の生きた交わり」 使徒言行録4章13~24節
ペトロとヨハネは、運ばれてきた生まれつき足の不自由な男にこう言いました。 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って、右手をとって彼を立ち上がらせました。 するとたちまち、その男は足やくるぶしがしっかりしてきた。 歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、ペトロとヨハネと一緒に神殿の境内に入って行ったと言います。 民衆は、ただ神殿のそばに座って施しを受けるだけの男の身に起こったこの出来事に、我を忘れるほど驚いたと言います。 それだけではありませんでした。 自分の身を恐れて逃げて、家に閉じこもっていたペトロとヨハネが、民衆の前で堂々と語り、その勧めに一日に三千人もの人が悔い改め、群れが産み出されていったというのです。 まるで、イエスが至るところでされた救いの業を、このペトロとヨハネが弟子たちの代表として果たしたのです。
二人の力の根源は、「イエス・キリストの名を呼ぶ」ことでした。 「イエス・キリストの名を呼ぶ」ということは、イエス・キリストの力を呼び出すことです。 イエス・キリストがペトロやヨハネと共にいて、働いてくださったということです。 足の不自由な男に、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言った。 民衆には、「イエス・キリストの名によって、バプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。」と言った。 自分たちがもっている「イエス・キリストそのものをあげよう。」とまで言った。 イエス・キリストと共にある。 その名を呼んで力を求めるなら、与えられるという信仰の確信が彼ら二人にはあったのです。
この二人の姿に手を焼いていた権力者たちはいらだちをもって、「イエスがよみがえった」とたわ言を言って、民衆を惑わしている。 イエスを十字架に架けてすべてが終わったと思っていたのに、そのイエスの姿をそのまま引き継いで大胆に語り、癒しの業を始めた二人を赦すことができなかったのです。 「イエス・キリストの名によって、だれにも話すな。 教えるな。」と脅しと命令を与えるために、身柄を拘束したのです。 その権力者たちに応えた二人の言葉が、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか考えてください。 わたしたちは、見たこと、聞いたことを話さないではいられないのです。」という言葉でした。 権力者たちは、民衆が神を賛美していたので、二人を脅して釈放するしかできませんでした。 その戻ってきた二人を迎えた弟子たちの群れの姿は、「これを聞いた人たちは心をひとつにして、神に向かって声をあげて賛美し、祈った。」というものでした。 群れの人々は、二人が戻ってきたことを感謝するのではなく、権力者の前で大胆に弁明し、証しすることのできたことを感謝している。 これから権力者たちの迫害は更に激しいものとなる。 だから、「今こそ、彼らの脅しに目を向け、私たちが思い切って大胆にみ言葉を語ることができるようにしてください。」と祈っている。 「どうかみ手を伸ばし、イエス・キリストの名によって病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」とまで祈っているのです。 そうした祈りの場に、二度目のペンテコステとも言える出来事が起こったのです。 「彼らの祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した。」と書かれている。 聖霊が降ったのは、一度限りのことではない。 イエス・キリストとともにあるという信仰の確信に満たされているところに、大胆な「証し」がなされているところに、そして、「私たちは金や銀は持ち合わせていないが、私たちがもっているもの、イエス・キリスト、そのお方から注ぎ出される力を与えることができるように」と祈っているところにこそ、聖霊が繰り返し、繰り返し注がれて、教会の群れが築き上げられていったと「使徒言行録」は語っているのです。