「思い悩むな」 マタイによる福音書6章25~34節
イエスは弟子たちに、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。 明日のことまで思い悩むな。」と言います。 別の聖書の訳では、「思いわずらうな。 心配するのをやめなさい。」となっています。 イエスは、思い悩む弟子たちそして私たちに、なぜ「思い悩むな」と言われるのでしょうか。 むしろ、先行きを案じていろいろと思い悩み、でき得るかぎりのことを果たしていくことは当然ではないでしょうか。 そのような時に、思い悩むなと言われれば言われるほど、私たちは素直にこの言葉を受け取ることができないのではないでしょうか。 しかし問題は、この思いが悲観的になり、心配になり、「思い悩み、思い煩い」となって、身を擦り減らすまでになって、希望や喜びが取り去られていくような状態になった時です。 この積み重ねられてきた「思い悩み、思い煩い」の正体は、いったい何であるのかということです。
イエスは、「自分の命のことで、自分の体のことで、自分の明日のことで思い悩むな」と言われます。 あなたの命も、体も、明日という時も、神から与えられたものではないか。 あなたにふさわしく与えられた「命」であり、「体」であり、「時」であるはずです。 神が強い意思をもって、目的をもって、あなたに与えられている賜物として授けられているものです。 それほどまでに大切なものとして与えられている、この「命、体、時」にとって必要なものを神がご用意しないはずがない。 このまま放っておけば、この「思い悩み、思い煩い」がその「存在」そのものを滅ぼしてしまうまでになる。 だから、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。 明日のことまで思い悩むな。」と言われているのです。 イエスは思い悩む私たちの願い、祈りを拒んでおられるのではありません。 母マリアもまた、人の常識ではまったく理解できないイエスのふるまいに、思い悩んだのです。 しかし、聖書は「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らした。」と書かれています。 マリアは分かるまで、心の奥底に納めていたというのです。 マリアは思い巡らしてはいたが、思い悩んではいないのです。 この違いはいったい何でしょうか。 私たちはこうなるのではないかという思い込み、何かを自分が定めたところから始めます。 そこから大きくかい離している現実の姿に耐えかねて落ち込んでしまう。 そこには、隠れた人の傲慢があるかもしれません。 神に任せるべきことを自分の苦労と背負ってしまう。 自分がなりたいと思ってもなれないし、したいと思ってもできない。 これが「思い悩み、思い煩い」の姿でしょう。 全地全能の神に対する不信でしょう 自分の考え、想定、理解に執着して、神のみ心、神のご配慮に信頼しきれていない私たちの姿でしょう。 この自分自身への過信が無惨に崩れ去った時です。 これが、私たちの目が開かれる時です。
イエスは、「目に見えない天の父が、空の鳥、野の花を養っておられるのをよく見なさい」と言われます。 日々新たに、蓄えておくことのできない今日の恵みを感謝して受け取っているではないか。 人が造り上げるものでは装うことのできない姿に配慮してくださっているではないか。 あなたがたは更に、明日の安心のためになぜ貪欲に求めるのか。 あなたがたの目はどうして神のみ業に曇っているのか。 「思い悩んだからといって、寿命をわずかでものばすことができようか。」 愚かな計算を棄てて、思いをはるかに越えた神の知恵に委ねなさい。 すべてを知っておられる神のみ心に気づかせていただきなさい。 空の鳥、野の花こそ、神の造られたものとしての「神の証し」の姿ではないかと言っておられるのです。 私たちの「命、体、時」は、私たちの所有物ではありません。 神に仕えるために託されたものです。 自分のために蓄えておくことのできないものです。 その神の力と知恵とみ心に委ねる信仰に立つなら、「思い悩み」を克服することができるのではないでしょうか。