「神の民の歩みの原点」 使徒言行録1章3~11節
聖書は、ペンテコステという不思議な出来事には聖霊という働きがあった。 その聖霊に導かれて、弟子たちに大きな変化が与えられた。 イエスの名のもとに再び集められた群れが「神の民」として、最初の群れとして造り上げられたと証言しています。 この地上を旅人として歩んでくださったイエスの生涯なしには、この出来事を語り尽くすことができないでしょう。 そのイエスの中に働いた新しい力が、イエスを復活させた新しい力が、今度はその福音を告げられた弟子たちのうちに働き始めた。 イエスの地上の旅の終わりが、弟子たちの旅の始まりとなった。 それが、今、私たちに引き継がれている出来事であると語っています。 悪戦苦闘の弟子たち、その壮絶な神の民の姿がここに語られています。 ですから、イエスは十字架の苦難を受けた後に、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって弟子たちに示し、40日にわたって現れたのです。 神の国、新しい世界、新しい力、新しい道筋を語られたのです。 そして、この「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられる。」と言われたのです。 そのイエスの言葉を聞いて、弟子たちは、いよいよ神が私たちの国を立て直してくださると思った。 神の約束されたものが与えられる時、聖霊によるバプテスマが自分たちに授けられる時には、自分たちの国が建て直される時であると思ってしまった。 しかし、イエスはそのようにはお答えになりませんでした。 その時は、父がご自分の権威をもってお定めになった時である。 あなたがたは知るところではない。 その神が定められた時まで、神の約束を待ちなさい。 神が必ず、あなたがたにふさわしい救いの業を成し遂げてくださる。 あなたがたこそ、力を受けて、イエスの証人となって、この新しい世界を造り上げる。 神の国はあなたがたに力が与えられることによって、あなたがたがわたしの証人となることによって、神の救いの業は成し遂げられるとイエスは言われたのです。
ペンテコステの出来事は、イエスの旅が弟子たちの旅へとバトンタッチしていく出発点でした。 聖霊という神の一方的な恵み、賜物によって、神との交わりが回復された。 苦しみもがきながらも、弟子たちが新しい姿に変えられていった。 イエスの名によって一つにされ、人と人の交わりが回復されていった。 今まで家の中に閉じこもっていた弱々しい弟子たちの群れが、新しい現実に出会いながら、驚き、悩み、もがき、苦しみ、悲しみながら、いかなる抵抗や試みをも乗り越えてイエス・キリストの名によって「福音」を語り続けた。 そのための力が与えられた。 ふさわしい言葉が与えられた。 神が定められた時を待つことができた。 その働きを導いたのは聖霊であったと、ペンテコステの出来事は語っています。 なぜ、このような困難に遭わなければならないのか。 なぜ、神はこのような苦しみを与えられるのかと思う時があります。 そのような時にこそ、神の前に出て、直接、そのみ心を真剣に尋ねることです。 私たちが期待する時ではないかもしれない。 しかし、信仰によって生きる人には、必ず「神がご自分の権威によって定められた時」に、応えてくださるのです。 信じていなければ、祈っていなければ、待っていなければ、この神の約束が果たされるかどうか見ることができないではありませんか。 常識や道徳や人の知恵に目が曇らされて、どうでもよいことに目を奪われてしまっていては、神が約束通り果たしてくださったという「無上の喜び」を味わい、伝えることができないではありませんか。 私たちの中に働いておられるのは神です。 私たちが神の言葉を聞いて、この私を動かしているのではありません。 そんな力は、私たちは持ち合わせてもいないし、長続きもしません。 信じる者の中に働く神が、聖霊と呼ばれているのです。 私たちはただ、この聖霊という神を宿すだけです。