「祝福を受け継ぐために召された」 ペトロの手紙一3章8~9節
ペトロは、ローマ帝国の支配下にあった小アジアの各地に散らされて住んでいるキリスト者へ、この手紙を書き送っています。 ローマ帝国のキリスト教徒への迫害がますます激しくなり、それに怯え、困り果て、動揺が生じていた「散らされていたキリスト者たち」へ、励ましの手紙を出しているのです。 その冒頭には、「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、霊によって聖なるものとされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。 恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」と励ましています。 そのペトロが、信仰の友に対する励ましの「終わりに」、「祝福を祈りなさい」と言っています。 自分の為にということではありません。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。 かえって、祝福を、その相手に向かって祈りなさい」と語っています。 ペトロは、悪をもって私たちに向かってくるその相手に、侮辱をもって私たちに迫ってくるその相手に、その人のために祝福を祈りなさいと言っているのです。 小アジアに散らされていたキリスト者たちは、ローマ帝国の人々の悪辣な行いに遭ったのでしょう。 辛辣な侮辱も体験していたのでしょう。 しかし、ペトロはその人たちのために「祝福を祈りなさい」と言う。 その理由が、「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召された」からであると言うのです。 キリスト者は、祝福を受け継ぐために祝福を受けた者です。 祝福を受け継いで、分かち合うために選ばれて遣わされた者です。 祝福とは、私たちが本来持ち合わせていないものです。 神によってしか与えられないものです。 ですから、私たちがこの「祝福」を願い求め、いっぱい受け取るべきものです。 自分自身のためではありません。 分かち合って、味わい合うものです。 私たちが分かち合って、ともにひとつに結びつけられるためのものです。 神の前には、悪人も善人も大差はないのです。 同じように、神の前に赦されて、愛されている者どうしです。 神によって、与えられる祝福は「力」です。 「喜び」です。 「希望」です。 それによって、祝福は祝福を呼び起こし、自ら拡がっていくのです。 私たちは、この神の約束、「祝福」を信じて待つことに欠けていないでしょうか。 神の祝福を期待して、祈り求めることに不足していないでしょうか。 神の祝福が果たされたことを喜ぶことに弱さはないでしょうか。 大いに期待して、神の祝福を祈り求めましょう。 それは私たちのためだけではありません。 私たちの隣人のためです。
ペトロは、「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」 そして、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。 かえって祝福を祈りなさい。」と言うのです。 ペトロは、広く一般的な道徳や教えを語っているのではありません。 今、現実に迫害に遭っているキリスト者たち、信仰の友に語っているのです。 「心をひとつにする」とは、「おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」と赦されている私たちに向けられている言葉です。 異なる立場にあったとしても等しく神に結びつけられた、神の子であるということでしょう。 「同情し合う」とは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことができるようになるということでしょう。 「兄弟を愛する」とは、神の愛に等しく満たされて、互いに愛し合うということでしょう。 「憐れみ深い」とは、はらわたという言葉から出ていることから、腹の底から愛するということでしょう。 「謙虚になる」とは、自分の弱さを知るということでしょう。 そのうえで、「悪」をもって、「侮辱」をもって迫る者に「神の祝福」を祈りなさい。 なぜなら、私たちこそが、すでに赦されている、愛されている、受け入れられている。 その祝福を受け取るために召されたのだとペトロは言うのです。