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「からし種一粒の信仰」 ルカによる福音書17章5~10節

2018-04-08

 この箇所では、弟子たちが「使徒たち」と呼ばれています。 教会の指導者たちのことを意味するのでしょう。 その彼らが、イエスが行われたように、イエスが語られたように、なぜ行い、語ることができないのだろうかと、その力不足を感じることが多々あったのでしょう。 「わたしどもの信仰を増してください。」 これが、彼らのイエスに対する切なる願いでありました。 これは「使徒たち」だけの願いではないでしょう。 私たちもまた、同じように、「私たちの信仰を増し加えてください。」と願い、祈り求めます。 もっと信仰があれば、こんなにふらふらすることもないのに。 もっと強い信仰を与えてください。 これが、私たちの願いでしょう。 同じように願った「使徒たち」に対するイエスの返事が、次のような譬えであったというのです。 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くだろう。」と言われたのです。 この譬えをどのように受け取ればよいのでしょうか。 マタイでは、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。 あなたがたにできないことは何もない。」と言われました。 マルコでは、「神を信じなさい。 だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」と言われたのです。 「からし種」とは、本当に小さな存在です。 手のひらに乗せてふっと吹いたら、軽くてどこかに飛んで行ってしまうような「ほこり」のようなものです。 イエスは、信仰は小さいとか、大きいとかということではない。 長いとか、短いとかという量の問題ではない。 からし種であろうが、桑の木であろうが、山であろうが同じである。 「信じる」、「祈り求める」なら、そのとおりになるとイエスは言われるのです。 イエスの言う「信じる」とは、信じることができないような時に、私たちの常識や理解では信じることができない状況の中で「信じる」ということです。 そういう意味で「信じる」なら、起こり得ないことが起きるとイエスは「使徒たち」に断言されたのです。 
 アブラハムは、何もわからないまま神を信じて故郷を棄てて、神の命令に従ってさまよい出たのです。 私たちは、神のみ言葉にかけて、信じてアブラハムは出発したと思っています。 しかし、アブラハムはその間、信仰の父とはとても呼べない悩める姿を顕わしています。 何度も悔い改めて、その都度祭壇を築いて主の名を呼んでいます。 その時、「アブラハムは主を信じた。 主はこれを彼の義と認められた。」と書かれています。 信仰は一度、信じたからといってそれでよいというものではないように思います。 事あるごとく、自分の祭壇を築いて、自分の祈りにふさわしい主の名を呼んで、神との交わりを何度でも回復させていただく。 「使徒たち」も同じでした。 故郷ガリラヤから何もかも棄ててイエスに従ってきたのです。 その「使徒たち」に、まるで信仰がないかのごとく、イエスは「神を信じなさい。 からし種一粒の信仰があるなら」と語りかけるのです。 「わたしどもの信仰」とこだわる「使徒たち」に、イエスは、信仰は自分の中にある能力であるとか、何かを勝ち取った資格のようなものではなく、与えられるものである。 自分の持ち物ではない。 すべてを成し遂げてくださる神により頼むことである。 だから、「からし種一粒の信仰」があるなら、あなたがたにできないことは何ひとつないとイエスは言われたのです。 神のみ心が成し遂げられることを、私たちはただ願い、受け取るだけなのです。 そのことのために、イエスは「主人と僕」の譬えを語り、「信じる」とは主人に僕として仕えるということであると言われたのでしょう。 信仰は、私たちの理解や常識を超えていても、僕としての立場に立ち続け、主人とともに生きることでしょう。 



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