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「手を伸ばし捕まえてくださる主」 マタイによる福音書14章22~33節

2018-03-04

 女性と子どもたちを別にして、五千人の男たちに必要な食べ物を与え満足させたイエスを、群衆が放っておくわけがありません。 ヨハネによる福音書では、「人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言い、イエスを王にするために連れて行こうとした」と書かれています。 イエスはそのことを察知して、「弟子たちを強いて舟に乗り込ませた。 その舟を向こう岸に先に向かわせた。 その間に群衆を解散させた。 そして、ご自身は祈るために山へ登られた。 そこに夕方になっても、ただひとり祈っておられた。」とあります。 イエスはご自分を英雄にし、王として担ぎ上げようとした群衆と、愛する弟子たちとを分けられたのです。 先に弟子たちだけを「向こう岸」に行かせて、ガリラヤ湖に舟を漕ぎ出させたのです。 舟は、荒れ狂う湖に翻弄されます。 夜じゅう、弟子たちは舟を進めようと奔走したのでしょう。 疲れ果て、途方に暮れて、ついに夜が明けてしまった。 その時です。 対岸からご覧になっていたイエスが近づいて来られた。 湖を歩くという、考えられない方法で近づいて来られたのです。 弟子たちは幽霊だと思って、恐怖のあまり叫び声を上げたと言います。 その弟子たちにイエスは語りかけるのです。 「安心しなさい。 わたしだ。 恐れることはない。」 このイエスの声に、嵐は一向に収まらないけれども、弟子たちは平安を取り戻すのです。
 このマタイによる福音書が書かれたころは、教会は迫害と殉教の嵐の中にありました。 ユダヤ戦争でエルサレムを追われ、行き場を失っていました。 マタイは他の福音書にない「ペトロの姿」をここに書き加えています。 ペトロは、イエスの声を聞いて、イエスを見つけ出して喜んだのです。 何の支障もなかった時には、イエスの存在には無関心であった。 しかし、経験をしたことのないような嵐に出くわし、不安と恐れに取り囲まれて初めてイエスがいないことに気づいた。 その時にイエスの声を聞くことができた。 湖の上を歩いて近づいて来られるイエスに出会った。 ペトロは心から喜び、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と口走った。 イエスは「来なさい」と言われた。 その通り、ただイエスだけを見つめて湖の上をペトロは歩き出した。 しかし、しばしの間忘れていたすさまじい嵐の湖を見渡して、再び元の姿に戻ってしまった。 「主よ、助けてください」と叫んで、イエスに対する信頼を取り戻したそのペトロに、イエスはすぐに手を伸ばした。 すぐに捕まえた。 すぐに救い出して、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語りかけられたのです。 これはペトロに対する叱責でしょうか。 そうとは思いません。 イエスはペトロの失敗を喜んでおられる。 でなければ、すぐに手を差し伸べ、捕まえられないだろう。 「なぜ疑ったのか」と憐れんで、抱きかかえて救い出されたのでしょう。 嵐や逆風を避けることが、私たちの選ぶ道でしょうか。 その困難な道にこそ、手を指し伸べ、捕まえ、執り成してくださるイエスが待っておられるのです。 ペトロの救いは、「恐れることはない」というイエスの呼びかけによって始まりました。 一向に収まらない嵐に目を奪われてイエスへの信頼を見失ったペトロを、イエスは目を決して離さなかった。 ずっと祈ってご覧になっていて、とりなしてくださったのです。 イエスとともに引き上げられて舟に乗り込んだ時に、嵐は静まったと書かれています。 乗るべき「舟」も用意されていた。 目指すべき「向こう岸」も定められていた。 渡るべきガリラヤ湖で「起こること」もすでに分かっていた。 嵐を起こすお方が、嵐を静められるのです。 順風であるのか、逆風であるのか、いったいだれが決めるのでしょうか。 今まで自分を支えてきたものがまったく通用しない「向こう岸」に向けてイエスに支えられて漕ぎ出した舟の中にいる弟子たちこそ、私たちの姿です。 



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