「聖霊によるバプテスマ」 マルコによる福音書1章4~11節
マルコによる福音書はイエスの誕生からではなく、イエスがヨルダン川で水にご自身の体を浸めてバプテスマを受けたところから書き始めます。 また、もともとのマルコによる福音書は、その終わりについても、十字架にかかられて死んだ後のイエスについては記されていないのです。 その理由は、十二弟子たちとともにした歴史上のイエスではなく、父なる神によって「死」からよみがえらされて「神の子」とされたイエスが語る福音を伝えているのでしょう。 そうすると、このヨルダン川でイエスが受けられたバプテスマの意味合いが少し違って響いてきます。 「イエスはガリラヤのナザレから、ヨルダン川に来た」と言います。 イエスは故郷ナザレを出て、家族と離れて、ヨルダン川の水の中に体を浸めるために出て来られたのです。 「イエスがこのバプテスマを受けたその時、イエスに聖霊が降った」と、四つの福音書すべてが語っています。 このヨルダン川でイエスがバプテスマを受けた後すぐに、父なる神から『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と宣言されたと言うのです。 水の中に浸められたイエスが、再び水の中から引き上げられ、イエスのからだが「死」から「命」へと引き上げられた。 「死」の中から引き起こされ、立ち上がったイエスが神の子である。 死んでよみがえられたイエスが神の子であると、父なる神の霊によって宣言されているのです。 ですから、マルコは、イエスの生い立ちや家族や家庭のことにほとんど関心をもっていないのです。 復活された後のイエスこそこの福音書に語られているイエスであると、冒頭に宣言しているのです。
バプテスマのヨハネが語る「水によるバプテスマ」は、「悔い改めにふさわしい実を結べ。」という、「罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマ」でした。 罪の悔い改めをする必要のないイエスがなぜ、このバプテスマを受けたのかということです。 もちろん、イエスが罪人とともにその中に入って、一緒にその罪を担おうとしてくださった。 その罪による絶望や悲しみや苦しみを一緒に味わってくださったのです。 しかし、そのこととともに、イエスはこの「水によるバプテスマ」を受けることによって、神の子であることの自覚を求められ、特別な使命を受けられたのです。 そのために、父なる神から直接、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と聖霊を受けられたのです。 イエスご自身は十字架にかけられることを、「わたしの飲む杯」、「わたしが受けるバプテスマ」(マルコ10:38)と表現しています。 この特別な使命を与えられたその時すぐに、「天が裂けて霊が降ってきた」のです。 「天が裂ける」とは、神の世界と私たちの世界を妨げていた「私たちの罪」が消えてなくなったということです。 イエスが故郷を捨てて、真の故郷、真の家族を求めて、新しい務めに立ち上がり、ヨルダン川に出て来られた。 罪人の群れに自らを置かれて、バプテスマのヨハネの授けるバプテスマを受けてご自身の命をささげられたのです。 そのイエスを、今度は、父なる神が「聖霊によってバプテスマ」を授けるお方にされたのです。 バプテスマのヨハネがそのことを、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。 わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」と証言しているのです。 聖霊はみ言葉を信じる者の中に働いて、み心を実現させる力です。 復活したイエス・キリストと一つに結び合わせる力です。 これが私たちの内に働いて、復活したイエス・キリストの姿を現わすようになる。 考えてもみない力を発揮させるのです。 弟子たちに聖霊が降った時こそ、「聖霊によるバプテスマ」を授けられた時です。 それまで家の中に閉じこもっていた弟子たちが、「十字架につけられたキリスト」を大胆に証しし始めたのです。 私たちにもまた、「天の父は求める者には聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と約束されているのです。