「今日、実現した解放」 ルカによる福音書4章16~21節
人々が安息日に集まり、聖書を読み、宣教の話を聞き、祈った場所が「会堂」でした。 ガリラヤのナザレという村にも、この小さな「会堂」があったのでしょう。 人々は、イエスが語られたみ言葉によって励まされました。 イエスがなされた癒しの業に驚かされ、人々のからだが癒されました。 「イエスの評判が周りの地方一帯に広まった。 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」と書かれています。 人々はこのような人物を本当に待ち望んでいたのです。 神は必ず救い主を遣わして、自分たちのこの苦しい生活を助けてくださると言い伝えられていたのです。 評判になっていたそのイエスが、「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。」 その時のイエスの姿は、「霊の力に満ちていた」と言います。 「教会」は人が集まって、聖書が読まれ、賛美がされて、祈りが為されていたとしても、それだけでは教会とはなりません。 そこにキリストが立っておられて、キリストの霊によって導かれてみ言葉が語られ、そのみ言葉が信仰によって受け取られ、そこから力を与えられなければ「教会」にはならないのです。 イエスは「霊の力に満ちて」、そうした人々の期待の前に立たれたのです。 イエスはイザヤ書61章の1節と2節だけを読まれました。 「主の霊がわたしの上におられる。 その理由は、貧しい人に福音を告げるためである。 捕らわれている人を解放するためである。 目の見えない人に視力の回復を告げるためである。 圧迫されている人を自由にするためである。 主の恵みの年を告げるためである。」 そう読み終わられてイエスは、会堂にいるすべての人の目が注がれるその場で語られたのです。 そのみ言葉が、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」というものでした。 これはいったい、どういうことでしょうか。
信仰は神のみ言葉を聞くことから始まる。 このみ言葉があなたがたの内に宿る。 私が父から受けている「霊」が、あなたがたに分け与えられる。 あなたがたは神の国に迎えられて、もうすでに神の恵みによって生きる者となる。 あなたは今日、すでに神の国にいる喜びを味わう者になるとイエスは言うのです。 この父なる神の「霊」を分け与えることができるお方は、よみがえられたイエス・キリストだけです。 誰も与えることができないし、誰もこの「霊」を受け取る資格などありません。 しかし、ただこのみ言葉を受け取って、信じて、心砕かれて、ひれ伏す者にだけには、だれにでも例外なく、恵みとして与えられる。 だからあなたがたは今日、耳にしたみ言葉を信じて受け取るなら、この恵みだけが支配する世界が今日始まる。 あなたの救いは今日、ここに実現した。 恵みがすでに与えられたとイエスはこの小さな「会堂」で言われたのです。
このナザレの小さな「会堂」で宣言されたイエスのみ言葉を、私たちは本当に解放の時が来たという約束の言葉として受け止めているでしょうか。 神のみ言葉は力です。 神の口から出るみ言葉は必ず成し遂げられるのです。 私たちに恵みとして与えられる「解放、救い」とは、人を神から引き離そうとする力、「悪の霊からの解放」でしょう。 ただ「恵み」として与えようとする神の「解放、救い」を素直に受け取ろうとしない「自分自身からの解放」でしょう。 自分を砕くどころか、築き上げた自分にしがみつき誇る「自分自身からの解放」でしょう。 一喜一憂する「からだ」に囚われない、「霊なるからだ」に変えられるという「不安からの解放」でしょう。 私たち自分自身の力ではどうすることもできないこと、イエス・キリストを通して与えられる「神の霊」によらなければできないことばかりです。 私たちはこのイエス・キリストによって解放された民です。 イエス・キリストは神でありながら人となり、人でありながら奴隷となって、私たちの「解放、救い」のために犠牲となり、仕えてくださったのです。 このお方とともに、私たちは歩むのです。