秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「キリストに属する者」 ローマの信徒への手紙8章1~9節

2018-01-21

 ローマの信徒への手紙の第8章は、キリスト者に与えられる「神の恵み」が凝縮して記されていると言われています。 パウロは、神によって与えられた律法の戒めを堅く守ることによって神の恵みに与かることに熱心な人物で、生涯をかけていました。 そのパウロが嘆いているのです。 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう。」とまで、悲痛な叫びを口にしています。 自分が思うようなことをせず、自分がしてはならないと思っていることばかりをする。 どうにもならない、死に定められた体をもつ者である。 滅びゆく「罪と死とによって支配されている」人間であると告白しているのです。 そうした絶望のどん底から、この悲痛な叫びとともにパウロは語るのです。 そうであるけれども、キリスト者となったこの私は、「主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」 絶望するまでに至ったこの私であるけれども、このキリスト者となったこの私には、感謝が与えられている。 その感謝の理由が、この第8章で語られている「神の恵み」なのです。 
 パウロが語っている「神の最高の恵み」は、大きくまとめて三つあると言います。 一つは、「今や、キリスト・イエスによって罪と死から解放された」ことである。 次に、「神の霊が、言葉に表せないうめきをもって私たちを執り成してくださっている」ことである。 最後に、「キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちをどんなものも、どんなところでも引き離すことができない」ことであると語っているのです。 キリストの福音を聞いて受け取った私たちに与えられている「神の恵み」とは、キリストによって罪と死から解放されているということ、神の霊によって生かされているということ、神の愛によって覆われているということである。 この「神の恵み」に、私たちは生かされているとパウロは言っているのです。 パウロは、「わたしがしていることが分かりません。 自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と自分に絶望しています。 自分たち人間には、神に背かせる力が働いている。 生まれながらの人間のままでは、自分の力だけでは神が求めておられることを行うことがどうしてもできないし、神のもとに立ち帰ることができない。 果たそうとすればするほど、自分に絶望してしまう。 罪と死の支配によって、私たちは閉じ込められている。 その絶望のうえに立って、「神の恵み」を実体験したパウロは言うのです。 「主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」 なぜなら、「今や、キリスト・イエスに結ばれているのは、この罪と死の支配からキリスト・イエスによって解放されている」からだ。 「キリスト・イエスによって命をもたらす霊によって解放されている」からだと言うのです。 イエスご自身の生涯を思い起こしてみてください。 パウロが絶望している「からだ」、罪を犯そうとすればいつでも犯すことができる「からだ」をもって、十字架の死によって地上の生涯を終えるその時まで、悪の霊との戦いの連続でした。 私たちと同じ揺れ動く「からだ」をもちながら、悪の霊に身を委ねず、神の求めておられることだけを成し遂げてくださったイエス・キリストという、神の霊が働く特別な場所を神は「初穂」として用意してくださったのです。 神の霊は、私たちが獲得したり、所有したり、保管しておくことのできないものです。 私たちは、ただ神の霊の働きを受け取るだけです。 私たちキリスト者は、キリスト・イエスによって解放の実体験を現実のものとして受け取ることができるようになったのです。 パウロは、このことを「キリストの霊を持つ者」、「キリストに結ばれている者」と言います。 「キリストの霊があなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、キリスト・イエスによって命をもたらす霊によって生きる。」と言うのです。 



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元