「いっさいを創り出す神」 イザヤ書45章2~8節
神が預言者イザヤを通して、キュロスという人物に語りかけています。 ペルシャ帝国の初代の王です。 神ご自身を知らない、異教の神を礼拝するキュロスを神はなぜ「油注がれた者」として成功を治めさせ、惜しみなく助けたのでしょうか。 その理由が、「キュロス王自身が、神を知るようになるため」、「イスラエルの民が、イスラエルの神であることを知るため」、「日の昇るところから日の沈むところまで、すべての人々が、わたしが主、ほかにいない。 わたしをおいて神はいないことを知るため」であったと書かれているのです。 次々と諸国を征服していったペルシャの英雄的存在となったキュロスは、征服した民族の伝統を尊重し、宗教の自由を認めたのです。 バビロニアに征服されて、捕らえられていたイスラエルの民も例外ではありませんでした。 キュロスによって、イスラエルの民がバビロニアから解放され、エルサレムに帰り、神殿を再興することが許されたのです。 神はご自身を全く知らない異邦人の王でさえも救いのみ業のために用いて、本人にも、イスラエルの民にも、すべての人々にも「わたしが主、わたしのほかにいない。」と言われる真の神を示されたのです。
7節に「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。 わたしが、これらのことをするものである。」と神は言います。 まったく正反対のものである「光」と「闇」、「平和」と「災い」それらいっさいのものを創り上げる神である。 その神は、「これらのことをするものである。 ことを起こすものである。 ことを為すものである。 創るものである。 働きそのものである。」と神は言っているのです。 イザヤは気づいたのです。 バビロニアに捕らえられ、閉じ込められていた自分たちが、異国の王によって解放された。 自分たちだけでなく、異邦人にも、すべての人々にも「わたしが主である。 いっさいのものをなすものである。」ということを神ご自身が示された。 神は万物を存在させる、創り上げる働きそのものであるということに気づかされたのです。 「闇」や「災い」だけを見ていたのでは、いっさいのものを創り上げる神を見ることはできません。 イザヤは自分たちが無数に体験する神の働きの一つずつを結び合わせて、その全体を見出し、「わたしが主である。 いっさいのものをなすものである。」と言われる真の神を見出したのです。 8節に「地が開いて、救いが実を結ぶように。 恵みの業が共に芽生えるように。 わたしは主、それを創造する。」と神は約束されました。 「わたしは初めであり、終わりである。 わたしをおいて神はいない。」(イザヤ44:6)と宣言された神が、初めに天地を創造し、終わりに救いの歴史を完成させると約束されているのです。 最初の人間アダムから始まった、神のもとを離れてしまった人間の罪の歴史があります。 ノアを起こし、アブラハムを立て、モーセを用いて、何度も繰り返して神のもとに立ち戻るようにと呼び戻してくださった神の救い、解放の働きの歴史があります。 しかし、終わりには、この神が力によってではなく、み言葉によって働かれる神である。 片隅に生きている小さな民をわざわざ用いて働かれる神である。 「弱い者、苦しむ者、悲しむ者、貧しい者」にまでご自身を落とし込んで、「苦難の僕」を遣わして、この救いの歴史の総仕上げをしようとされていることにイザヤは気づいたのです。 その「苦難の僕」こそ、ナザレの人イエスです。 十字架に架けられて死刑とされたイエスです。 その死んで葬られたイエスをよみがえらせ、私たち人間の「初穂」として神の子として引き上げられたのです。 このよみがえられて、今も働いておられる神の子、イエス・キリストを用いて救いの歴史を完成されようとしておられる。 このイエス・キリストが再び来られる時、その時が救いの完成の時である。 これが、終わりの日に完成される救いの創造の業であるとイザヤは気づいて語ったのです。