「御子によって語られる神」 ヨハネによる福音書1章14~18節
ヨハネによる福音書は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。」と言います。 「父のふところにいる独り子である神、イエス・キリストがこの世に来て父なる神を表してくださったのだ」と、クリスマスを短い言葉で端的に語っています。 イエスは、神の言葉となって、私たちの世に来られました。 初めから神と共におられた、神の子であったそのキリストが、ナザレの大工であったイエスとしてこの世に来られました。 父なる神の側から言えば、人としてのイエスの中に神が宿り、イエスの中から私たちに語りかけ、ご自身をイエスを通して表してくださったのだとヨハネは語っています。 聖書に、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子、イエス・キリストによってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1-2)と言う通りです。その通りに、イエスは神の言葉を権威をもって語られたのです。 預言者が語る「主は言われる」というような間接的な表現ではなく、「わたしは言う」と父なる神の言葉を直接語ったのです。
ヨハネは、「わたしたちは、父の独り子としての栄光を見た」と言います。 イエスを十字架につけたユダヤの祭司や律法学者たちは、「自分たちの栄光」を求め、守るために、「イエスの栄光」を見ることができませんでした。 イエスの不思議な力を見て驚いたユダヤの民衆もまた、「自分たちが求めていた栄光や恵み」と「イエスの栄光」は異なるものであると知ると、イエスを捨てました。 弟子たちもまた、「自分たちが描いていた栄光」が崩れ去ったことは民衆と同じです。 しかし、この弟子たちがよみがえられたイエスと出会って変えられたのです。 新しく造り変えられたのです。 神のみ言葉が語りかけられ、聖霊が降った時、彼らの中に新しい命が誕生したのです。 イエスの誕生こそ、私たち人間が生まれ変わって生きるようにと、新しい神の子として生きる道を初穂として切り開いてくださった神の出来事であるとヨハネは語っています。 「主が豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられた。 それは主の貧しさによって、わたしたちが豊かになるためだった」(コリント一8:9)のです。 「そのお方は、恵みと真理に満ちていた。 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」と言います。 かつての恵みの上に、かつてないまったく新しい恵みを更に受けたと言います。 石打ちの刑で打ち殺されようとしていた女性に、「わたしはあなたを罪人としない。 これからは、もう罪を犯してはならない。」と、罪の赦しを与えられたのは、まったく新しい恵み、救いの恵みではないでしょうか。 そのお方が神の子であったという新しい恵みです。 このイエスをこの身に宿すことによって与えられる新しい「恵みと真理」を豊かに浴びることができるようになる。 この「恵みと真理」は、イエス・キリストを通して現れたまったく新しい恵みであると、ヨハネは語っているのです。 パウロは、「神がイエスを死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9)と言います。 神のみ言葉であるイエス・キリストの言葉を信じるなら、あるいは語りかけてくださる「イエス・キリストの恵みと真理」の確かさにゆだねるなら、その語られたみ言葉は、信仰によって、聖霊の働きによって、救いの出来事になっていく。 み言葉が語られ、信仰によってそのみ言葉が聞かれるなら、新しい命の誕生というイエス・キリストの救いの出来事が必ず起きると言うのです。 ですから、私たちは人間の知恵を捨てて、み言葉に聴くことです。 そのみ言葉を受け入れることです。 その「恵みと真理」に委ねることです。 マリアや弟子たちが体験したと同じように、私たちの身にも起きるのです。