「マリアとヨセフに示されたこと」 ルカによる福音書2章22~34節
聖書のなかに、「残された者」(レムナント)という言葉があります。 すべてのものが失われるような事態になったとしても、そこには必ずわずかなものが残る。 すべての者が滅ぼされるような時にも、わずかな例外が残される。 それが新しい時代の基となる。 洪水物語の中に出てくるノアとその家族などは、この「残された者」の象徴のように思わされます。 イエスがこの世に来られた誕生物語にも、誰の目にも留まらないような残された、小さな存在が用いられています。数少ない者にだけ告げられた「世界で最初のクリスマス」の恵みを、その直後に味わったシメオンという人物の姿に目を向けたいと思います。
聖書には、シメオンは「正しい人であった。 信仰があつい人であった。 イスラエルが救われるのを待ち望んでいた人であった。 聖霊が留まっていた人であった。」とだけ書かれています。 マリアとヨセフが律法の定めに従って、その子イエスをささげ、そのいけにえをささげようと神殿にやってきた時です。 霊に導かれて、ひたすら救い主を待ち望んでいたシメオンが神殿の境内に入ってきた時です。 ささげものに「山鳩ひとつがい、家鳩の雛二羽」しか用意することのできなかった貧しいふたりが神殿に連れて来た、生まれて間もない赤ちゃんにシメオンの目が留まります。 シメオンは躊躇なく、その赤ちゃんを自分の腕に抱きかかえます。 そして、神をたたえて言うのです。 「主よ、あなたはお言葉どおり、この身を安らかに去らせてくださいます。」 いったい、この言葉はどういう意味でしょうか。 シメオンはただ律法の戒めをかたく守るだけの人ではありません。 来たるべき救い主に必ず出会う。 そのことが約束されていると、ずっと待ち望んでいた希望の人です。 その約束は、聖霊によってすでに自分に与えられていると確信していた人です。 ですから、今、その赤ちゃんをシメオンが目にした時、その約束が成し遂げられたと、「わたしはこの目であなたの救いを見た。」と言います。 ただ、両親に抱えられている赤ちゃん、自分が抱きかかえた赤ちゃんを見ているだけです。 しかし、シメオンは見えていたのです。 聖霊がうちに宿っていたので、この小さな存在の中に、神の恵み、救いの恵みが満ちていることが分かったのです。 シメオンは、「わたしはこの目で救いを見た。」と言っているのです。 霊の目で、神の約束の救いを、今、見た。 シメオンが見たと言っている救い主は赤ちゃんです。 その救い主の業もこれからです。 しかし、シメオンはその救いのみ業がもうすでに見えた。 それも、今までとはまるっきり違う、万民のための新しい救いを備えてくださったと神に賛美しているのです。 これ以上のものはないと、これから後、このお方と共にあるというずっと続く恵みがシメオンには見えたのです。
このシメオンの言葉に驚いているマリアとヨセフに、シメオンは続けて言います。 「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりする。 そのために定められたしるしです。 反対を受けるしるしとして定められている。」と、両親が見えていないものを語るのです。 この子はイスラエルの人々に歓迎されるのではなく、逆につまずくものになる。 人を倒すものにもなる。 立ち上がらせることにもなる。 二つに分けるつまずきのしるしとなると、シメオンは言うのです。 多くの人がこの救い主に出会って、その人生が変えられていく。 信じることのできない者にとっては、つまずきの石となる。 しかし、信じて受け入れる者にとっては尊い隅の親石となると、喜びとして、祝福として両親に語っているのです。 シメオンは、ただ死を待っているだけの人ではありませんでした。 神の約束を信じて、期待して、準備をして、待ち望んでいた希望の人でした。 聖霊をうちに宿して、導かれて、救い主に触れて、抱きかかえて、体験して出会うことのできた人でした。 この出会うことのできた救い主を誕生させ、十字架につけ、復活させる神の愛が万民を覆い包むという新しい恵みを、まだ霊の目をもってみることのできない両親に告げた最初の証し人です。 私たちもまた、新しい霊の目をいただいて見えているものを伝え、この救い主のもとに「来て、見なさい」と伝えるものとさせていただきたい。