「危機に働かれる神」 エレミヤ書29章10~14節
「あなたたちのために立てた計画は平和の計画であって、災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。」というこのみ言葉に耳を傾ければ傾けるほど、この神のご計画のすさまじさに驚かされます。 何年経とうが、どれほどの時間をかけようが、また私たちが思いつきもしない、考えもしないものを用いてでも、神はたったひとりの口に授けられたみ言葉だけによって、成し遂げられるお方であることがよく分かります。
小さな国であったユダの国は大国バビロンによって占領され、崩壊寸前でした。 ユダの国の有力者、職人や戦士たち一万人近い人たちが、エルサレムからバビロンに連れ去られたと言います。 その荒廃したエルサレムに、「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべてを語れ。 わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」と、しり込みをするエレミヤを神は立てられたのです。 偽預言者や占い師たちは盛んに、「エルサレムは神に守られている。 バビロンがエルサレムから奪い取って行った神殿の祭具はすべて戻ってくる。 バビロンへ連行された人たちもまた、二年のうちには戻ってくる。」と語っていたのです。 この耳に心地よい彼らの言葉を、エルサレムの人々は信じていたのです。 今朝の聖書箇所は、そのバビロンの地にいる人々にエルサレムから書き送ったエレミヤの手紙の一部です。
その手紙の冒頭に、「イスラエルの神、万軍の主は言われる。 わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。」とあります。 神は、あなたがたは敵の国であるバビロンが自分たちを捕らえて、こんなところにまで連れて来たと嘆いているかもしれない。 そうではない。 私があなたがたを、エルサレムからバビロンに送ったのだと言っているのです。 「そこで、家を建てて住みなさい。 木を植えてその実を食べなさい。 人口を増やしなさい。 その町のために祈りなさい。」と言われているのです。 手紙を書き送られた人々は、敵の地で苦しみを味わい、すぐにでも故郷に戻りたいと熱望している人々です。 エレミヤの手紙は、慰めにも、励ましにもなりません。 しかし、神はエレミヤを通して、あなたがたの思い描く将来と希望は、神のみ心とは異なるものであるとはっきり告げるのです。 あなたがたがしがみついているものは、エルサレムの神殿や祭儀である。 自分自身の思い描く目に見える希望である。 神はそれらをことごとく砕いて、「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。 わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 これは平和の計画であって、災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。」と方向転換を迫ったのです。 この七十年という時はいったい何でしょうか。 人々の目が開かれるに必要な時間でしょう。 神のみ言葉に聴き従わず、自分たちの思いを実現しようとした人々の目が開かれるために、またエルサレム神殿にすがり、かつてのダビデの権力にしがみついて耳が聞こえなくなってしまっている人々が砕かれるために必要な時間です。 その時が満ちるまで、備えなさい。 故郷に帰るまで、その町の繁栄を祈りなさいと言われたみ言葉は、バビロンを呪い、その滅びることだけを願っていた人々の思いを根底から覆すみ言葉でした。 神はみ言葉通り、別の大国ペルシャを用いてバビロンを滅ぼし、「捕囚の民を帰らせる。 呼び集める。 連れ戻す。」と言われたみ言葉を成し遂げられたのです。 エルサレムの破滅と苦難の道を越えて、エルサレムの人々の絶望を越えて、神はご自身の将来と希望へとみ言葉だけによって大転換させたのです。 壊し、砕く神は、耕し、植えて、建て上げる神です。 私たちの絶望が、神の希望へと生まれ変わるのです。 み言葉を遮るものが取り除かれ、自分の思いとはまるで違う生き方が与えられるのです。 これは、今あるもの、手にしているものからではなく、まったく新しい神のもとからくる恵みなのです。